『人の資本主義』の「はじめに」を(無料で)読む
『人の資本主義』という本を行きつけの本屋さん、いや、行きつけのブックファーストで見つけた。
さっきからなんとなく、中島隆博のものが読みたくなり、何を読もうかとうろうろ、具体的にはブクログのアプリでシュワッ!キュ!と中島隆博の本だとされるものの一覧を眺めていた。すると見つけたのだ。『人の資本主義』を。
「ああ、ブックファーストで見たやつだ。」と思った。置いてあった景色も思い出した。
私としては『共生のプラクシス』に収録されている「他のものになることの倫理──ジル・ドゥルーズと中国」という論稿や『残響の中国哲学』に収録されている「誰が他者なのか──エマニュエル・レヴィナス」という論稿が読みたいのだが、二つともいかんせん高い(七千円近くする)ので、うーん………と思っていたら一部無料で読めるらしい。『人の資本主義』は。
私はいま「断哲」ということをしていて、哲学書を読まないことにしているのだが、これが哲学書かどうかは読まないとわからないので、と言い訳をして読んでみたいと思う。無料なので皆さんも読めると思います。では、読んでいきます。読んできます、のほうがいいかな?
そう言えば、『漢詩鑑賞事典』を読んでいたのだった。それで中島隆博が読みたくなったのか。遠いような、近いような、単純であるような、複雑であるような、よくわからない回路だ。
さて、読んできました。無料公開の部分は大きく分けて三つの部分に分かれます。中島隆博による「はじめに」、「目次」、そして小野塚知二による「第一章「人の資本主義」の意味と可能性についての覚え書き」の一部(二節に入りかかったくらい)です。私は「目次」は流し読みして、「はじめに」と「第一章」はある程度ちゃんと読みました。料理の手伝いをしてと言われたので行ってきます。
手伝いついでに食べちゃいました。
私は「わたしたちの生はきわめて複雑な複雑系」(iv頁)という認識、そして「存在に代えて変容を、しかも共に変容することを、人間の再定義として考えてみたい」(v頁)に親近感とそれゆえの違和感を感じました。いや、違和感というよりは「私はここを強調したい」という自己認識をしました。「ここ」とはどこかと言えば、「変容」ではなく「共に変容する」ことを「存在」に代わる「人間」の定義として持ち出すのは「存在」から「変容」へ、そして「変容」から「共に変容する」ことへ、という流れのなかにあることではなく、そもそも「存在に代えて」ということが「共に変容する」ことを据えることによってしか可能にならないのではないか、というところです。
様々な発想が私に飛来し、あるものは突き刺さり、あるものはすり抜け、あるものは通り過ぎました。「まえがき」は以下のように締められます。
人の資本主義。この新しい複合語が開くものは、ある慎ましい生の様式です。それは人間がともに人間的になっていく望みのもとに生きるものです。そうすることで、もしかすると人間は動物や植物の高貴さに少しは近づくことができるかもしれません。
vii頁
最後の意味ありげなところは置いておいて、そう言えば「望み」の話もしていました。
と言って引用しようとしたのですが、正直よくわかりませんでした。「望む」と「できる」を「欲望(の形)」という点で対比させるところは紙幅の関係もあるのでしょう、よくわかりませんでした。そんなことを言えば全体がそうなのですが。
「人間がともに人間的になっていく」というところでは『人間になるということ』というキルケゴールに関する本があることを思い出しました。未読ですし持ってもいませんが。これもブックファーストで見たことがあります。
「慎ましい」や「生の様式」についてもいくつか連想することはありますが、今日はここらへんにしておきましょう。いつか読むかもしれません。私という海に一つの船が沈没したような、そんな感じがします。錯覚かもしれませんが。
「断哲」については以下を参照のこと。