2-1-2 本当の自分
こんばんは。
自分について考えているのに、他者のうちの自分が生き生きとしているという不思議な始まり方をしましたこの考察。
けれど、考えれば考えるほど、それはそうだよなあ、となってしまうのです。
あくまで、僕は。ですけれど。
まあ、ここでは「本当の自分」という存在について考えていきましょう。
なんというか、特に意味はないのですが、「本当の自分」を探したそうな人が周りに多くいるので、そういった話題がいいかな、と思いました。
「本当の自分」というのはどんなことを言っているのでしょうね。
僕はいつもその言葉を聞くと、「本当の自分を知ってどうするんだろう?」とか「自分の本当さを知ってどうするんだろう?」とか思ってしまいます。
僕には「本当の自分」がなぜ価値を持つのかがわかりません。
たしかに、純粋な自分という存在に出会った時の自分というのにも興味が湧きますが、そんなことよりも生き生きとしている自分の方に興味がいってしまいます。
もしかすると、僕の言っている「生き生きとした自分」と皆さんの言っている「本当の自分」というのはどこか重なるところがあるのかもしれません。
ここではとりあえず、「本当の自分」というのについて考察してみましょう。
「本当の自分」を探そうとするのはどうしてでしょうか。
それは「本当の自分」を知らないからでしょうか。
いや、そうではありません。
本当の自分を知っているからこそ、その自分をもう一度確認したいのです。
家の鍵閉めたかなあ、みたいな感じで、本当の自分っているのかなあ、と確認したいのです。
たしかに、家の鍵はとても気になります。
はたまた別に、「本当の自分」を傷つけられたから、なのかもしれません。
本当の自分のままで生きていたつもりが、いつのまにか傷ついていた本当の自分が本当の自分ではないと思うことによって、つまり本当の自分を新しく知ることによって、それを上書きしようとしているのかもしれません。
まあ、こんな感じで、本当の自分というのは失われたり、いなかったりして、それを手に入れることが「生き生きとした自分」につながりそうなことはわかります。
しかし、ひとつわからないのは、「本当の自分」を探している時に「自分」に出会うことはないのでしょうか。
もっと簡単に言えば、どれが本当の自分で、どれが本当ではない自分で、どれが自分でないか、というのはどう判断するのでしょうか。
「本当の自分」というのは「自分探し」の名詞化された形でしょう。
「自分探し」というのもまた、不思議な行為です。
「自分探し」で探している自分は自分ではないのでしょうか。
自分という言葉にはどれだけの可能性があるのでしょうか。