正木ゆう子から鑑賞を学ぶ7
今日の「正木ゆう子から鑑賞を学ぶ」はいつもとは趣を変えてやってみよう。いつもは『現代秀句 新・増補版』のある頁を読んで、そこから鑑賞のなんたるかを学んでいく感じでやっていたけれど、今回は「読んで、学ぶ」の「、」をお風呂に、湯船に入っている時間に引き伸ばしてみよう。なのでいまから読む。いつもは句の引用→私の感想→正木の鑑賞→感想の変容みたいな流れでしているけど、今回はどうしようかな。とりあえず句は引用するとして、私の感想を軽く書いて、それ以降を書くのはお風呂から上がってからにしよう。もしかしたらなんにも考えないかもしれないけど。お風呂で。
なんというか、階段が無いから嫌になっちゃって、「海鼠の日暮かな」って言っちゃったみたいな感じがする。どういうふうに作ったのかが気になるなあ。まあ別に他の人のやつもどういうふうに作ったものかはわからないけれど、なんというか、こういう人が、とか、こういうときに、とか、そういうことがわかりにくい句だなあ、と思った。「階段がなくて」のところはなんでもいいような感じがして、これである必然性がないからこそ逆に必然性を半ば邪推みたいな形で想像してしまう。階段があったら「海鼠」じゃないのかな、とか、「日暮」じゃないのかな、とか、逆にそっちになっちゃう。階段がないことは確定していて、そこになにをぶつけていくか、みたいな作句法だし、それゆえにそういう想像法だと思うのだが………。ただ、ここで「作句法」と「想像法」が「それゆえ」で繋がるのはやはり、「階段がなくて」と「海鼠の日暮かな」が切断されていて、繋がる予感もなく、さらに言えば二つが関係する仕方がいまいちよくわからないということによるもので、「作句法」と「想像法」が「それゆえ」で、さらには「作句法」から「想像法」という方向性で繋がることはあまりないことだと思う。正直なことを言えば、私には大して秀でた句であるとは思えなかった。
では、正木の鑑賞を読んでいこう。読んで、風呂に行こう。全文引用しておくので皆さんも同じことができるはずだ。「私の感想」を読んでしまったから私と同じではないかもしれないけれど。
では、お風呂に、そして湯船に入ろう。
考えられませんでした。お風呂に入る前に同居人に「これは俳人が詠んだもの?私が詠んだもの?」クイズをしていて、そのなかで「石段の座れば春の顔見える」という句を出題して(皆さんはどちらだと思いますか。)、そのときに「一段に」とか「石段や」じゃだめなの?と聞かれたことについて考えることに夢中になってしまいました。というかそもそも、正木の鑑賞は「実景として解釈して」いるほうじゃないほうは、なんというか、リアリティがないし、リアリティがないことのリアリティもなくて、なんだか連想を育むだけ(例えば宮沢賢治の「革トランク」という短編に階段のない家というイメージが出てくるのでそれを思い出しました。)で、それは「鑑賞」としてはどうなんだ、と思いました。し、それを覆す考えも浮かびませんでした。さらに言えば、正木は「百人いれば百人の違った解釈の可能な、重層的な句である」と言っていますが、強調して言えば「百人いれば百人の違った解釈の可能」である=重層的なというふうに接続していますが、私はそうは思いません。「解釈」で「重層」的であるだけでなく生きていくなかで、なぜか思い浮かぶことを繰り返すなかで、愛唱するなかで「重層」的になっていく、私はそんなイメージの方が強く、そういう句こそがいい句だと思います。もちろん、私に曖昧なところで耐える、そんな力、いま流行りの言い方で言えば「ネガティブ・ケイパビリティ」が足りないのかもしれませんが。(ちなみに上の「石段の座れば春の顔見える」は私の句です。同居人はもっと直裁に「『の』がわからないから○○くん(私のこと)のやつだと思ったー。」と言って、「に」とか「や」とかを提示してくれた。私はそれらに応えて、「『に』だと散文的すぎる。」「『や』だとゴツゴツしすぎてる。」とか言いつつ説得を試みたが成功しなかった。というか、別に言い合うつもりはなかったと思う。同居人にも私にも。)
正木は「初版後記」で次のように言っている。(なぜか頁が振られていないので頁数は書かない。書けない。わけではない。頁は一つずつ進んでいくのだから数えれば、数え方を他のところで確認すれば書ける。ただ、書いていないので書かない。)
もしかしたら「愛唱」寄りなのかもしれない。この句は。私はこの「優れた句」の定義、「優れた句は、一句の中に実世界と同様の奥行きを持って、どこまでも鑑賞者の侵入を受け入れてくれる。」が好きだ。閒石の「詩の本領」やそれに触発された正木の「重層的な」ということよりも。
触れられなかったことに触れて今日は終わろう。ぶつ切りで書く。私は橋閒石の句があまり好きじゃないのかもしれない。ここまで正木とともに鑑賞した橋閒石の句は句自体も正木の鑑賞もあまり好きではない。別に嫌いではない、というか、嫌いですらない。心の動くところがあまりない。だから「作句法」とか「想像法」とか、方法に目が向いてしまうのである。おそらく。まあ、まだ三句だからこれからどうにでもなるだろう。今回は、そして前回も正木の鑑賞にあまり学べなかった。今回は「実景として解釈」する正木の端正な感じには感じ入るところがあって、それは学びであると言えばそうだが、そうではないところでは「日暮かな」がよくわからなくなってしまうことが気になってなんともし難かった。もちろんなんでもかんでも説明することも説明できると思うことも野暮というか、俳句としてのキレに欠けるが、それにしてもリアリティがなかったのである。そうだ。橋閒石の句にはリアリティがない。現実ではあり得ないとか、そういうことではない。ここでの「リアリティ」は。「手触り」とか、「実感」とか、そういうふうに言われる何か、それがないのだ。そう言えば、同居人は私に言った。上のクイズの際、「の」とか「に」とか「や」とか言っていたときに、そのあとに言った。「○○くんは季節自体を比喩に使っているよね。」と。そして私は返した。「そう、俺には季節感がないからね。」と。二人で笑った。季節感がない俳句。まあ、別にそれでもいいと私は思う。まあ、季節感を得たいとも、微かに、いや結構思っているとは思うけれども。では。書き続けてしまうので今回はこれで。
推敲していると私のつんのめりが目に見えた。し、書き逃していることもいくつか見えた。が、それらを書く元気はないのでそれはまた今度に譲ろう。また書く機会はあるだろう。では。