2-1-13 人間のような

木が人間のように感じること、皆さん、ありませんか。
なんでもいいです。
洗車機が人間のように感じることありませんか。
もっと文学的哲学的なことで言うと、ある記述に書いた人間のすべてを感じること、ありませんか。
近代の文学批評のスタンスをバルトに「作者に還元するな。」みたいに怒られたところで、作者に還元したらこんなにも面白く読めるのに!と反論したくなったことありませんか。(まあ、バルトはそんな論点の話をしているわけではなく、作者という一つ、それも特権的に外部として設定された作者に収縮していく読みが面白くない、と言っただけだと思いますが、)
まあ、なんでもいいんですけれど。
僕が他者に向かうのはそれが人間のような何かを持っているからです。
人間とは何か、と問うと比べるものが欲しくなりますが、それらは人間について説明していたり反省していたりするだけです。
まあ、それでわかってくることもあるので一概には言えませんが、僕はあまり好きではありません。(この論は「記述することが問題であって、説明したり分析したりすることは問題ではない」というメルロ=ポンティの言葉に強すぎる触発を受けています。)
人間とは何か、と問うとき、他者に人間のような何かを感じる、と答えたら、答えていることになるのでしょうか。
わかりませんね。
なにせ、人間とは何か、というのは、自分とは何か、という問いのバリエーション、いや、二つが、自己意識とは何か、という問いのバリエーションのように考えられますから、答えが出ないのです。
なぜなら、答えを出してもそれを共有する方法がないのですから。
哲学も文学も思想もそれをあらかじめ理解しているように振る舞っているのが僕はなんとなく鷹揚な感じがします。
受け容れるってなんだか素敵ですもの。
他者に、とこれまで言ってきましたが、僕のいう他者はなんなのでしょうか。
答えを言うと、それは人間的な何かを感じる存在、です。
散々他者は豊かだ、他者は素敵だ、と言ってきたのに、いまさらかよ、みたいな感じになってしまいますが、別に皆さんも違和感なく受け容れてくれていたのなら、この論の場「他者」や「自分」の場は何かいい空間なのかもしれません。
その他者に不可欠な人間的な何か、ってなんですか?
と聞かれると、
ああ、なんだろう。
となってしまいますが、まあそれは受け容れてくれた人たちの中に咲いていればいいと思います。
言いたくないんですけれど、仮に言うとすれば、人間的な何かとは文体である、になるんですけれど、これを表現するためには、もう一度話をしなくてはならないくらいのスケール感がありますから、まあこれからの文章の端々で感じてくれたり、昔の自分の文章に感じてくれたりしたら、嬉しいです。
これだけでは放り投げすぎだと思うので、もう一つだけ言葉を使って現すと
「哲学は文体で世界を作り、文学は文体で主体を作っている」
という感じになります。
余計わかりにくくなってしまったような気もします。
まあとにかく、文体は実体じゃなく各個人の感覚のうちに現れる連関の名前に過ぎませんから、言い換えれば、構造主義における構造は他者論における文体である、みたいな感じでもいいと思います。
なので、レヴィ=ストロースの構造の定義「「構造」とは、要素と要素間の関係とからなる全体であって、この関係は一連の変形過程を通じて不変の特性を保持する。」を「「文体」とは、他者と他者間の関係とからなる全体であって、この関係は一連の変形過程を通じて不変の特性を保持する。」と変換して考えてもいいと思います。
そして僕が文体に見出す不変の特性こそ、人間的な何か、なのです。
悪い癖でわかりにくいことをもっとわかりにくくしてしまったような気がしますが、とにかく、他者が豊かであるというのは他者のうちに人間的な何かを感じるということである。ということだけでも伝われば幸いです。


いいなと思ったら応援しよう!