2-1-5 自分を知る
自分を知りたい。
そう思う人は多くいると思います。
たしかに、僕にもそのような感情が見出される瞬間があります。
しかし、哲学がたびたび犯すあの「すべて」に適用できるような自分の知り方は存在しないと思います。
なぜなら、永遠の集積たる自分に区切りをつけて語ったところで「すべて」と言うことなど全く不可能だからです。
そして、僕以外の人はどのように自分を知るか、僕はあまり知りません。
そのような営みにおいては、人はあまりに個人的な振る舞いをせざるをえません。
しかし、知らないことを語ることはしたくありません。もし、人を騙せるかもしれない道があっても、僕はそれを歩けないのです。
それは正義感というよりも自分という問題にはそのような態度が不可欠だからです。
まあ、関係ないことを話しますと、自分という重層的な関係においては、奥底に眠る本当の自分というものは存在しないものなのです。
ある側面からみるとある側面が消えてしまい、ある側面を見て愉悦に浸っているときある側面は全く無視されているのです。
そのような認識のシステム上、すべてをある純粋さに託して語ろうとする哲学的な態度は見るに堪えません。
しかし、そんな哲学がある種の人々を感動させ、その共鳴から新たな一歩を踏み出させるのは、もっぱらその傲慢な純粋さや思索していくその運動たる哲学者の憎たらしいまでの美しさや透徹した視線に生命の鼓動が抗えないからでしょう。
話を戻しますと、自分を知るということは自分を知り続けることに他なりません。そういう意味では、認識というシステムははじめから自分を追放しているのです。
自分を認識しようとすることは自分を追放することにほかなりません。
集積たる自分も数え間違え、自分からの自分像も追放され、測りきれない自分だけが心の中に沈殿する。
そんな自分を人はなぜ知りたがるのでしょうか。
ありし自分ともうすでに消えた自分のあの圧倒的な美しさに人はどうして抗えないのでしょう。
自分が好きな人も自分が嫌いな人も自分を知りたいというあの純粋な受容への欲求は潰えないのはどうしてなのでしょう。
僕はその答えを他者に求めました。
それは自分を諦めたというより自分を追い求めたからなのです。
この言葉は誰かから借りたものではありません。
ただ、あの自分から借りたのです。
一つだけ似ている文章を示すとすれば、「信仰に席を開けるために、知を否定しなければならなかった」というカントに似た心情が僕の中には存在していたのかもしれません。