『ひとごと』の感想

『ひとごと』を読んだ。とりあえず一読はしたと言えるくらいは読んだ。なので極めて短く、しかし確実に、いま感じていること、考えていることを書き連ねていこう。

まず、私の感じ方を示すために最も好きだった文章を紹介しよう。私が最も好きだったのは「見て、書くことの読点について」である。なんというか、一番楽しそうだったし、可能性の中心を感じた。まあ、その可能性がなんなのかについてはまだよくわかっていないのだが。

正直なことを言うと、私はいわゆる批評と言えそうなもの、例えば「異本の論理」は充分に楽しめなかった。また、批評論的なもの、例えば「ジャンルは何のために?」は充分に楽しめなかった。

ただ、それはなんというか、時間的なスケールの問題で、いつかは楽しめる、とさっきいくつかの文章を読み直して思った。その感じは言うなれば、私はちゃんとバラバラになっている、共通点の乏しい文章群を渡された、みたいな感じである。

それに馴染めていないとき、私は『非美学』や『眼がスクリーンになるとき』の副読本みたいな感じでしかこの本を読んでいなかった。それが悪いことだとは思わないが、「ひとごと」のスタンスが身についてきたのだと思う。もちろん、それを身につけるための忍耐は二つの本によって励まされてはいるが。

副読本であることが悪いわけではない。ただ、本を読むことにはスタンスを新たに身につけること、身につけようとすることも含まれるのである。いまは副読本として読んでいく。そういう態度も実践的でいいものだと思われる。

もう少し具体的な話をすると、私が最も実感を持って読んだのは日記に関する文章である。私も日記を書いているというのもあるし、それ以上に日記から得られるエネルギーがなんであるか、それをどう使うかを考えるきっかけになり続けてくれた。

また、私はいつも、していることの意味を考えず、言うなれば後付けでいいやと思っていて、しかしちゃんと後付けすらしていないのだと少し反省もした。いや、別にしていないが、後付けがうまいなあ、と思った。こんなことを言っても仕方がないが、別に悪口でも皮肉でもない。素直な尊敬である。

なんというか、この本に似ている『意味がない無意味』は同じ構造、リズムの反復を感じられる点で楽しかったが、それとは別の快楽が私のなかに生まれつつあるのを感じる。そこまで我慢というか、継続というか、できたこと、させてくれたことに感謝したい気持ちがある。

私はいわゆる映像を作ったこともちゃんと見たこともないが、なんというか、それを映像に限らない力能に変換してくれて、身体を、態勢を整える仕方というか、心構えというか、そういうものを教えてくれたのはこれからの財産になったと思う。

具体的な話に戻ると、「作品にする」ということについて、私は極めて「エッセイ」的なのだということに気がついた。「作品未満」のものを「作品にする」という意識自体はあるのだが、それをメジャー/マイナーで捉えたことがあまりないのである。この共感できなさが今後どうなるのかは楽しみである。

一番共感できた一文は「気分と習慣という、ぱっと見では相反しそうなことが日記において身を寄せ合っていた。」(204-205頁)である。また、ここには福尾の「圧着」やら「剥離」やら、そういうレトリックの力が見える。

レトリックとしては「いてもいなくてもいい」が一番印象的だった。ただ、このレトリックが書き手と読み手、作り手と感じ手(?)の関係にどう効いているのか、いまはよくわかっていない。感じられていない。また、このレトリックがクリティカルなのかどうかも同様である。

私は「私たちはいつも問われているわけではない」とたびたび言っているが、それと「ひとごと」の距離感を測りかねている。この点については「僕でなくもない」という文章を読むといいかもしれない。

このくらいの、これについてはこの文章を読むといいんじゃないかなあ、くらいの肌感はある。「一読した」でこれくらいの肌感があるのはセンスがありすぎるので、「一読した」よりは読んでいて、「読んだ」よりは読んでいないくらいの概念が欲しい。

なんというか、ここまで書いてきて微かに反省しているのだが、私は私がしてきたことがなんであったかを説明するものとして文章を読む癖があるのかもしれない。私は意味もよくわからず何かをする癖があるが、それをなんとかする仕方にも癖があるのである。反省しているというよりも気づいている。

うーん、何かを「作品にする」必要があるのかもしれない。福尾の仕方を真似て。明確に真似て。「作品未満」を「作品にする」ことと「作品以前」を「作品にする」ことを区別してみる必要があるのかもしれない。体感しなくてはならないような気がする。

まあ、「今日書いたことを頭に置きながら明日を生きるほど、人間の頭は──少なくとも僕の頭は──よくできていない」(206頁)のだけれども。

こんなものを書こうと思ったのはもっとうまく書ける予定だったからである。居残ることすらできない私。居残ることができるというのはどういうことなのだろうか。私にはよくわからない。

もう終わりにしようと思ったのだが、「ポストをあと5個まで追加できます」と言われたので追加しよう。

「「見て、書く」ことの読点に、哲学さえもそこに含まれるフィクションとしての創造の原器を、僕は見ている。」(147頁)この一文が私はこの本のなかで一番好き。発想として好きなのは「フィギュール」的なハイフン/「リテラル」なハイフンという記号法と思考法。「な」と「的」。

早口になってきてしまった。まあいいけれど。これで終わらせるのはもったいない。このスペースを。ただ空白があるだけでは疎らにはならない。それはそうなのだが、ある程度の長さがないと疎らであることがわからない。そんなふうにも思う。

インスタレーションがたぶんよくわかっていない。私は。ただ、私は街路樹(と街灯)を見るのが好きで、もちろんこれは「作品以前」を「作品にする」ことに近いとは思うけれど、木にも「理想的な視点」はない。やっと近づけてきた気がする。ただ、もうそろそろ終わりだと思う。文字数が。ボリューム。

やっと「ルアー/デコイ」の対比もわかりそう。使えるようになりそう。刻み込まれそう。私のしてきたことは勝手に剥がれ、勝手に「作品にする」ことの一つになる。「作品にする」ことを「作品にする」。悪癖が出てしまったか。構造癖。

「ポストを追加するにはまずこのスレッドを送信してください」。?、あー、続けられてしまうのか。なんだか醒めちゃった。さようなら。「たとふれば心は君に寄りながらわらはは西へでは左様なら」(紀野恵)。

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