死ぬのにもってこいの日とは

ゆる言語学ラジオのどこかの回で『心はこうして創られる』(講談社選書メチエ)で『アンナ・カレーニナ』でアンナが死んだのには絶対的な理由がないみたいな話をしていたという話をしていた。

さて、こんなに曖昧な話から始めたのは「死ぬのにもってこいの日とは」というテーマで話をしようと思っているからである。このテーマはある人が私に与えてくれて、今日はこれに答えられそう、応えられそうなので今日はこれについて書きたい。

偶然と言えば偶然だが、私は今日のお昼くらいに次のように書いていた。

アクセルを回そうとしたその後に、私は思う。「死のうとしてた。」と。

2024/10/12「宝物に興味はないけど」

私は今日、結構長距離の移動をしていた。バイクで。知らない道を通って。そこで私はカーブに差し掛かった。そしてふと、このままアクセルを回し続けたら私はどうなるのだろうか。と。わくわくした。が、「ああ、死ぬわ。」と思ってやめた。

「死ぬのにもってこいの日とは」ということを考えるとき、私は私の嫌悪感を思い出す。別にいつ死んでもいいし、諸々の苦難、そして人間性さえ忘れれば、忘れられればいつでも死ぬことができる。ただ、私は一つだけ我慢ならないことがあるのである。「死人に口なし」だとしてもわざわざそのように言われるくらいには死人は生きているのだとしたら、私は死人として一つだけ、一つだけ我慢ならないことがあるのである。それは「〜だから死んだんだ。」と言われることである。死人である私には口がないので「黙っとけ。」とは言えないのだが、そういうふうに思うことは確実であるように思われる。

私は幽霊を信じても疑ってもないが、幽霊はこのような倫理性、嫌悪感に駆動されているのかもしれない。このようなテーマに繋がったのはおそらく偶然である。もちろん死人と幽霊は近いと言えば近いが。

上で私は「偶然と言えば偶然だが、私は今日のお昼くらいに次のように書いていた。」と書いていた。「偶然と言えば偶然だが」というのはそのうちに「必然と言えば必然だが」を含んでいるように思われる。では、そのように言われる場合、「必然と言えば必然だが」と言われる場合は何がそれを引き起こしているのだろうか。

それはおそらく私がいくつか与えてもらったテーマから一つを選んだことである。その選択が必然性を発揮させている。ただ、これはフィクショナルであり、ゆる言語学ラジオでもそういう話を(も?)していた記憶がある。

さて、最も物的で、最もどうでもいいようなこととしては、私の部屋に、おそらくは『心はこうして創られる』があるということが必然性を生み出したと言えるかもしれない。ただ、その奥にもまた選択があり、『心はこうして創られる』を買うという選択があり、その奥、いや、背景にはフィクションが存在している。この円環のなか、私は死人であることで必然から偶然への道を閉ざされているのである。まあ、その道が閉ざされないのがどういうことなのか、私たちはどうしてか力説しなくてはならないのだが。死人である場合は力説も何もそもそも説明ができない。

さて、答えを言おう。「死ぬのにもってこいの日とは」なんなのかの。「死ぬのにもってこいの日」は「どうして死んだかわからない日」である。私にとっては。「死人に口なし」に口惜しい気持ちにならないような、そんな、不意の、事故のような死。ただ、それは周到に、綿密に直感されていた、そんな日。ただ単にアクセルを回し過ぎてしまったことにできる、そんな日。死のうとしている人にしか「死ぬのにもってこいの日」はわからないのだ。

さて、なんとなくふわふわしていて、それでもいい文章の気がする。もう推敲する元気はないので誤字を修正して投稿しよう。あらためて、面白いテーマを与えてくれた友人に感謝したい。ありがとうございます。

ちなみにこの文章を推敲している途中、私は自分の部屋に帰った。そこには『心はこうして創られる』があった。その左横には『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書)が、右横には『夢と虹の存在論』(講談社選書メチエ)があった。

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