「存在論的差異」と「所有/負課」
「存在論的差異」と「超越」と「所有」と「負課」ということについて整理ができないのでここで頑張って整理する。論文調で書くとどうしても書けない。難しい。まだ。スタイルとして確立されていない。もちろん、ここもそうなのだが。
さて、全部ハイデガーの用語であり、私が問題にしているのは木村敏においてのそれらである。今回は『自分ということ』という著書からの引用を交えつつ、四つの概念について理解していこうと思う。
まず、「存在論的差異」は簡単に言えば、「存在者」と「存在」との違いのことである。ここでの「存在」というのは「存在者」を存在者ならしめている「開けの場」とか言われるものであり、「存在者」が「存在者」であるのはこの「存在」が私たちに会得されているからであると言われる。
次に「超越」というのは、この「存在論差異」の根拠になるような何かであり、「超越」がなされなければ「現存在」は「現存在」として存在することができない。少し誤解しながら言ってもいいのなら、「存在」の会得と「超越」は同じようなことであると言える。のかもしれない。
最後に「所有」と「負課」である。「所有」は「存在者としての自己を自己の身体存在において現前する自己として所有している」(190)ことであるとされている。それに対して「負課」は「現存在」が「みずからの存在者自己であらねばならぬ」(190)ことであるとされている。
ちなみに「現存在」は「みずからが存在することにおいて、あるということ自体と関わっているような」存在者であるとされている。木村(2008)においては。
さて、もうわけがわからなくなりそうであるが、木村(2008)が重要だと言い張っているハイデガーの文章を引いてこよう。
超越において現存在ははじめて、みずからそれであるところの存在者に、つまり自己<自身>としての現存在に到達する。超越が自己性を構成する。しかし超越はやはりけっしてまず自己性のみに拘るのではなく、それと一つのこととして、現存在<自身>ではない存在者にも拘る。より正確にいえば、超越において、また超越を通じて、存在者のうちではじめて、だれが<自己>であるか、<自己>がいかにあるか、そして何が<自己>でないかが区別され決定される。
『自分ということ』186頁
ああ、ここまで書いたところでわかってしまった。ような気がする。私の読みが浅かったからよくわからなかっただけなのだ。
「負課」だけ述べておこう。
「負課」は「存在者」としての自己が「別様であり得る」ということに晒されていることに他ならない。ただでさえ「存在」と「存在者」の繋がりには偶然性が跳梁跋扈しているのに。それに対して「所有」においてはその偶然性が手懐けられて、もちろん一時的なものだが手懐けられて、「現存在」と「存在者」としての自己の平和な統一がある程度は成り立っているのだ。
ああ、問いを作るのが下手な私よ。ハルモニアに還るなど言わず、少しだけ頑張れ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?