正木ゆう子から鑑賞を学ぶ14

めちゃくちゃ久しぶりに「正木ゆう子から鑑賞を学ぶ」をしてみよう。することを簡単に言えば、『現代秀句 新・増補版』で「学んだなあ」という頁があればその学びを書いていくということである。

(もしかしたら必要な前提かもしれないので確認しておくと、『現代秀句 新・増補版』は一頁に一句載っていて、その鑑賞が行われているような本である。)

この「正木ゆう子から鑑賞を学ぶ」というシリーズでの「学び」には大きく分けて二つのパターンがある。一つは掲句が自分で鑑賞できて、正木の鑑賞にも学ぶところがあった、というパターン。もう一つは掲句が自分で鑑賞できず、もしくは満足いく鑑賞ではなく、正木に鑑賞を学んだ、というパターン。今回はおそらく後者である。というか大体後者である。過去の、13回(確認してきた)のなかのどれがどれなのかは見分けがつきにくいかもしれないが見分けられるはずである。まあ、そんな酔狂なことをする人間はいないと思うが。なにはともあれ、今回の句を引用しよう。

百代の過客しんがりに猫の子も
加藤楸邨

正直よくわからなかった。なんというか、猫の子がこの世界にはじめてきた、ある種の客人として存在している感じは実家に猫が来たときに感じたのでその感じもあると思ったが、それはただの連想に過ぎないと思った。あと、音数が悪いとも思った。最後の「も」もよくわからないと思った。ちなみにこの二つの疑問、疑義は正木の鑑賞によっては解決されない。まあ、別にいい。正木に学ぼう。とりあえず。

墨書句集『雪起し』(昭和六二年)所収。「おくのほそ道」冒頭の「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」の名文を一匹の仔猫に冠した面白さにまず引き込まれるが、やはり一句を成立させているのは、高邁な哲学と可憐な仔猫を全く同列に見る楸邨の公平さである。芭蕉の哲学と可憐な仔猫を繋ぐものは、「しんがり」という言葉である。そこで観念的な言葉がはっきり目に見える生き物の列として示される。そして、尻尾をせいいっぱいぴんと立て、おぼつかない足どりで列の最後尾についてゆく仔猫の愛らしさが、哲学を愛に変える。
18頁

これは鑑賞の全文ではないが、このあとは楸邨の猫好きエピソードと言ってもそこまで差し支えないと思うので省略した。私は猫は好きでも嫌いでもない。

私はのんきなので「墨書句集」っていいなあ、作ってみたいなあ、と思ったが、それは置いておこう。

「尻尾をせいいっぱいぴんと立て、おぼつかない足どりで列の最後尾についてゆく仔猫の愛らしさが、哲学を愛に変える。」こんなにかっこいい鑑賞がしてみたいものだ。

ただ、私はこのかっこよさも私の「ただの連想に過ぎない」ような鑑賞、そうか、私のは感想なのか。自己解決してしまった。まあいい。とにかく、「楸邨の公平さ」や「しんがり」という言葉についての考察はピンと来なかった。引用した箇所の最後のところを読んで、「なんて具体的に、そしてクールに読むことができるんだろう。」と思った。それは事実である。ただ、そのこととピンと来なかったことは別のことである。私としては私よりもいい、しかし「ただの連想に過ぎない」ような鑑賞だと思ったのである。

差がないと言っているわけではない。これ、「正木ゆう子から鑑賞を学ぶ」をはじめた当初から言っていることだが、やはり私と正木のあいだには具体化のスキルにだいぶ開きがある。ただ、今回はそのスキルだけが光っていただけだと言えばそうであるとも思う。

なんというか、別に対抗意識があるわけではない。いや、あるのかもしれないが、素直に具体化のスキルの開きを感じただけである。「学ぶ」ことにはそういう実感も大切なのである。

まとまらなかった。久しぶりだから仕方ない。前はもっとうまくまとめていたのだけれど………

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