倫理の初源
私は後者を読んだとき前者を勝手に書いていた。それに気がつくと、つまりそれを読むと私は「ああ、真実を掴んだ。」と思っていた。つまり、私にとって明らかに進んだ気がしたのだ。前にか、後ろにか、上にか、下にか、左にか、右にか、それはわからないが進んだ気がしたのである。原点に回帰しようとする、その運動性が跳ね返って、スーパーボールみたいに跳んでいったのである。そしてそれを「進む」だと思ったのである。
この二つの引用を読むためには前提が必要である。それをすべて追っていると感動が遠のいてしまうのでとりあえず三つだけ必要なことを確認しよう。
まずは後者からである。後者をもう一度引こう。
ここではアウシュビッツ(これを書くたびに私はひるんでしまうし、誰のものかすら忘れた短文を思い出してしまう。書けないかもしれない。)の話がなされている。精確に言えば、東浩紀がアウシュビッツの話をするある人たちを批判している箇所が宮﨑裕助によってまとめられている。「ハンス」というのはアウシュビッツを象徴する人物である。東浩紀はその「ハンス」を絶対的な引力にすること、そしてまた斥力にすること、それを批判している。いや、批判しているというよりも悲劇性について「ハンスが犠牲者として選ばれたのはまったくの偶然」であるがゆえのものであるのではないかと指摘している。らしい。
「らしい」というのは私はここで話されている東浩紀の議論を直接は読んだことがないからである。しかし、それでもなお、ここでの語りかけにはデジャヴ感がある。それは私が偶然と倫理の関係について少し前考えていたからである。いまはそれが独我論と倫理にスライドしているが、いや、本当はスライドすらしていないのかもしれないが、とにかく考えたことがあったのである。その初源が前者の引用にある。前者をもう一度引こう。
私の中にある「倫理の初源」、それは「夜の住宅街」のエピソードである。
私は夜の住宅街を歩いていた。そしてふと、それぞれの家に明かりがあり、その明かりのもとには私と同じように生きている人たちがいることに気がついた。そして、私はその事実のあまりの重さにたじろぎ、世界が私に全圧力をかけてきたような気がした。そのとき私は倫理というものがなんなのかわかった気がした。
こんなエピソードである。私は倫理について考えるとき、陰に陽にこのエピソードを背景にして話している。いつからか。(記憶では三年前くらいからである。正確かどうかはわからない。し、別にあまり興味がない。)
私はこのエピソードの核心を「私と同じように生きている」というところに見ていた。「他人もまた『私と同じように生きている』んだ」、この、とても単純で素朴とも言える事実に、その事実の重さに気がついた。そういうことが核心だと思っていたのである。しかし、私はそうではないと思ったのだ。後者の引用を読んだときに。(流れを淀ませるようで申し訳ないのだが、これは後者の引用が響いたからというよりもたまたま体調とか流れとか、そういうものがカチッとハマったのが後者の引用を読んでいたときであっただけだと思う。なので実は後者の引用に関する解説はいらないと言えばいらないし、そもそも後者の引用が必要であるわけでもない。しかし、手がかりにはなると思うのだ。)
もう一度引こう。
ここでの「構造」というのは私と他人との圧倒的な差異が圧倒的な差異になる際の構造のことである。(この「構造」については「累進構造」に関する永井均の探究に拠るところがとても大きいがそれを解説していると長くなるし、そもそも解説ということができないようなものでもあると思うので置いておこう。参考文献としては『哲学探究1』が挙げられると思う。)簡単に言えば、私と他人の違いが他人と他人の違いになるときの構造のことである。逆に、他人と他人の違いが私と他人の違いを存在させる構造のことである。私と他人という圧倒的な違いが他人と他人のあいだにも成り立つ一般的な差異になり、そのことによって初めに「圧倒的な違い」と言っていた差異が存在し始める、そんな構造のことである。ここには二重性がある。私と他人、他人と他人、この二つの関係に「構造」が、「同じ構造」がある、そういう二重性がある。私はこの「同じ構造」に到達したのである。
複数性という極めて重要なテーマをとりあえず置いておくとすれば、私は私と他人の差異をどうにか他人と他人の差異に読み込むことで「倫理の初源」を発見した。そういうふうに思っていた。しかし、それは少し違った。いや、だいぶ違った。私が発見したのは「明かり-人」と「自分-私」という対応関係だったのである。そしてそれが夜によって強調され、家によって象られ、それらによってやっと私は、言うなれば、悟ったのである。絶対的な孤絶を。そしてそれゆえの連帯を。
やっぱり後者の引用は必要なかったかもしれない。しかし、話を繋げてみよう。軽く。二つとももう一度引こう。
ここにはいくつも余剰がある。イメージの余剰で言っても「忘却の穴」、「亡霊」、「世界が重む」、「明かり」などなどの余剰が。さらにはここで説明していない「郵便的な訂正可能性」ということや「彼ら」の複数性などなど、それらも余剰であろう。しかし、ここにもし一つ、有益そうな対比が作られるとすればどうだろう。無理やりだろうが作ってみよう。
と思ったが無理だ。しかし、私が「偶然」から離れた理由が関係しそうではある。私が「偶然」から離れたのは私は私であり、その「私は私である」は言語というメタ制度が作り出したものであるがゆえに語りえないと思ったからである。また、語ってしまうと語りうると思われてしまうと思ったからである。それはそもそものテーマ、倫理に繋がらない。そう思ったからである。おそらく。
このことを強調するなら、東にはコミュニケーションがある。し、それがあるからこそそこで言われている悲劇性の解釈が成り立つ。しかし、私はそれを少なくとも表には出していない。ただ単に絶対的な差異にこだわり、それを孤絶として描き出そうとしている。しかし、私は孤絶したいのではなく、その孤絶を描くことがなにかしら「倫理の初源」に触れている気がしているからそれをしている。とも言えるかもしれない。もしかすると。もちろん、これは都合の良い解釈かもしれないが。
東と私(の奥にいる永井)の間にいるのはおそらく千葉雅也である。
正直私はまだ、この文章の威力、そして間-性を充分に理解していない。しかし、ここになんらかのそれらがあることはわかる。しかし、私と千葉はおそらく「<無倫理的並立>」にあるわけではないのだ。それは私が「解釈」で私と千葉を結んでしまうからである。このことの奥底には言語がある。そういうことだと思う。しかし、「そういうことだと思う」としか言えない。元も子もなさ、そしてその倫理。私にはそれが聞こえるような聞こえないような、そんな気がする。
私のエピソードは亡霊のように私を囲う。私はそれによって私であり、その亡霊に私を見張らせているのである。倫理的であるかどうかを考えさせるために。いや、もしかすると存在するとはそういうことなのかもしれない。
よくわからなくなってきた。「倫理の初源」なんていう考え方を解体したい。彼らはそう言うかもしれない。私はどうなんだろうか?
推敲後記
なんだかずっと、ずっと何かを避けている感じがする。意図的かは知らないがそんな気がする。語りきれていないこと、それも意図した語りきれなさではなく、そもそもそれを語るために書き始めたのに書けていない、語りきれていないこと、それがある気がする。それが何であるか、私にはまだよくわからない。
あ、そうか。私は「私-他人」を「他人-他人」から考えているが、実は私は「私-他人」を「他人-私」に反転させることで、そしてその反転がわからないくらい強度を増すことで世界の重みを理解したのだ。だから、私は結局「他人-他人」なんてわかるはずがないというところを非常に強く持っているのである。
このことに関係して、私はいつもレヴィナスの文章を読むと「ああ、独我論的だなあ。」と思い、そして同時に「逆-独我論的だなあ。」と思う。このように思うことがどういうことなのか、私はまだ全然わかっていないが、やはり独我論と倫理はここにある気がするのだ。偶然は、どうだろう。欲望の話なのかもしれない。何によって、何を追いかけてしまうことによってそれらの、哲学的営為が繰り返されているのか、なされているのか、そういうことであろう。
私はデリダやレヴィナス、東や千葉のように欲望的ではない。そもそも欲望を掻き立てる何かが必要なのである。それがない限り私は無気力であり、その「無気力」という規定すらも無化しようとする。それによって私はある意味では悟るのであるがある意味ではアパシーになるのである。無感動。私は感動を追いかけて、そう、一つメタレベルの課題があるのである。私はこういう課題を他の人の文章に感じたことがない。みんな書きたいことがありそうで、考えざるをえないことがありそうである。しかし、私にはそれがない。あるふりをすることはあるけれども。もちろん、みんなも「あるふりをする」だけなのかもしれない。しかし、私は私のような存在としての他人にしかお伺いを立てたいとは思わないのだ。そしてそのお伺いに応答があるとなんだか、なんだか冷めてしまうのだ。
最後に千葉の文章を引用して終わろう。文脈を設定しなくてはわからないだろうが、みなさんがそれをしてくれればいい。本文でも書いたようにまだ、私と千葉は結構な他人で居続けているからである。
アパシー、アディクション、欲望、割り切りですらない打ち切り、そういうものを考えなくてはならないのだ。しかし、それでも別に「倫理の初源」はある。絶えず跳ね返すものとしての、「倫理の初源」は、ある。
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