倫理の初源

そうか、私の夜の住宅街、世界が重む、その話はきっと、それぞれの家の明かりが彼らを照らしている、その「彼ら」が直接見えないことで構造が二重に適用され、それが私に対する適用と重なったからあのような、倫理の初源のように感じられたのか。

2024/6/7「ナルトともなると」

つまりこういうことである。ハンスが犠牲者として選ばれたのはまったくの偶然ーー「確率的性質」ーーに属する。このことはハンスの背後には、名前すら残らず、存在したことそれ自体すら忘れ去られた膨大な犠牲者たちがいたということ、つまり、ハンナ・アーレントが「忘却の穴」として喚起したように、"初めから存在しなかったかのように消されてしまった"人々の存在を想像させるのである。
ということは、ハンスもまた彼らと同様、はじめから存在しなかったかもしれなかったのである。彼らは、一切の手がかりがなく、唯一無二のかけがえのない生をもつ存在としてわれわれが想像することすら容易でない匿名的かつ亡霊的な存在である。郵便的な訂正可能性が透視しているのは、そのような亡霊たちの存在である。

『25年後の東浩紀』352-353頁

 私は後者を読んだとき前者を勝手に書いていた。それに気がつくと、つまりそれを読むと私は「ああ、真実を掴んだ。」と思っていた。つまり、私にとって明らかに進んだ気がしたのだ。前にか、後ろにか、上にか、下にか、左にか、右にか、それはわからないが進んだ気がしたのである。原点に回帰しようとする、その運動性が跳ね返って、スーパーボールみたいに跳んでいったのである。そしてそれを「進む」だと思ったのである。
 この二つの引用を読むためには前提が必要である。それをすべて追っていると感動が遠のいてしまうのでとりあえず三つだけ必要なことを確認しよう。
 まずは後者からである。後者をもう一度引こう。

つまりこういうことである。ハンスが犠牲者として選ばれたのはまったくの偶然ーー「確率的性質」ーーに属する。このことはハンスの背後には、名前すら残らず、存在したことそれ自体すら忘れ去られた膨大な犠牲者たちがいたということ、つまり、ハンナ・アーレントが「忘却の穴」として喚起したように、"初めから存在しなかったかのように消されてしまった"人々の存在を想像させるのである。
ということは、ハンスもまた彼らと同様、はじめから存在しなかったかもしれなかったのである。彼らは、一切の手がかりがなく、唯一無二のかけがえのない生をもつ存在としてわれわれが想像することすら容易でない匿名的かつ亡霊的な存在である。郵便的な訂正可能性が透視しているのは、そのような亡霊たちの存在である。

『25年後の東浩紀』352-353頁

 ここではアウシュビッツ(これを書くたびに私はひるんでしまうし、誰のものかすら忘れた短文を思い出してしまう。書けないかもしれない。)の話がなされている。精確に言えば、東浩紀がアウシュビッツの話をするある人たちを批判している箇所が宮﨑裕助によってまとめられている。「ハンス」というのはアウシュビッツを象徴する人物である。東浩紀はその「ハンス」を絶対的な引力にすること、そしてまた斥力にすること、それを批判している。いや、批判しているというよりも悲劇性について「ハンスが犠牲者として選ばれたのはまったくの偶然」であるがゆえのものであるのではないかと指摘している。らしい。
 「らしい」というのは私はここで話されている東浩紀の議論を直接は読んだことがないからである。しかし、それでもなお、ここでの語りかけにはデジャヴ感がある。それは私が偶然と倫理の関係について少し前考えていたからである。いまはそれが独我論と倫理にスライドしているが、いや、本当はスライドすらしていないのかもしれないが、とにかく考えたことがあったのである。その初源が前者の引用にある。前者をもう一度引こう。

そうか、私の夜の住宅街、世界が重む、その話はきっと、それぞれの家の明かりが彼らを照らしている、その「彼ら」が直接見えないことで構造が二重に適用され、それが私に対する適用と重なったからあのような、倫理の初源のように感じられたのか。

2024/6/7「ナルトともなると」

 私の中にある「倫理の初源」、それは「夜の住宅街」のエピソードである。
 私は夜の住宅街を歩いていた。そしてふと、それぞれの家に明かりがあり、その明かりのもとには私と同じように生きている人たちがいることに気がついた。そして、私はその事実のあまりの重さにたじろぎ、世界が私に全圧力をかけてきたような気がした。そのとき私は倫理というものがなんなのかわかった気がした。
 こんなエピソードである。私は倫理について考えるとき、陰に陽にこのエピソードを背景にして話している。いつからか。(記憶では三年前くらいからである。正確かどうかはわからない。し、別にあまり興味がない。)
 私はこのエピソードの核心を「私と同じように生きている」というところに見ていた。「他人もまた『私と同じように生きている』んだ」、この、とても単純で素朴とも言える事実に、その事実の重さに気がついた。そういうことが核心だと思っていたのである。しかし、私はそうではないと思ったのだ。後者の引用を読んだときに。(流れを淀ませるようで申し訳ないのだが、これは後者の引用が響いたからというよりもたまたま体調とか流れとか、そういうものがカチッとハマったのが後者の引用を読んでいたときであっただけだと思う。なので実は後者の引用に関する解説はいらないと言えばいらないし、そもそも後者の引用が必要であるわけでもない。しかし、手がかりにはなると思うのだ。)
 もう一度引こう。

そうか、私の夜の住宅街、世界が重む、その話はきっと、それぞれの家の明かりが彼らを照らしている、その「彼ら」が直接見えないことで構造が二重に適用され、それが私に対する適用と重なったからあのような、倫理の初源のように感じられたのか。

2024/6/7「ナルトともなると」

 ここでの「構造」というのは私と他人との圧倒的な差異が圧倒的な差異になる際の構造のことである。(この「構造」については「累進構造」に関する永井均の探究に拠るところがとても大きいがそれを解説していると長くなるし、そもそも解説ということができないようなものでもあると思うので置いておこう。参考文献としては『哲学探究1』が挙げられると思う。)簡単に言えば、私と他人の違いが他人と他人の違いになるときの構造のことである。逆に、他人と他人の違いが私と他人の違いを存在させる構造のことである。私と他人という圧倒的な違いが他人と他人のあいだにも成り立つ一般的な差異になり、そのことによって初めに「圧倒的な違い」と言っていた差異が存在し始める、そんな構造のことである。ここには二重性がある。私と他人、他人と他人、この二つの関係に「構造」が、「同じ構造」がある、そういう二重性がある。私はこの「同じ構造」に到達したのである。
 複数性という極めて重要なテーマをとりあえず置いておくとすれば、私は私と他人の差異をどうにか他人と他人の差異に読み込むことで「倫理の初源」を発見した。そういうふうに思っていた。しかし、それは少し違った。いや、だいぶ違った。私が発見したのは「明かり-人」と「自分-私」という対応関係だったのである。そしてそれが夜によって強調され、家によって象られ、それらによってやっと私は、言うなれば、悟ったのである。絶対的な孤絶を。そしてそれゆえの連帯を。
 やっぱり後者の引用は必要なかったかもしれない。しかし、話を繋げてみよう。軽く。二つとももう一度引こう。

つまりこういうことである。ハンスが犠牲者として選ばれたのはまったくの偶然ーー「確率的性質」ーーに属する。このことはハンスの背後には、名前すら残らず、存在したことそれ自体すら忘れ去られた膨大な犠牲者たちがいたということ、つまり、ハンナ・アーレントが「忘却の穴」として喚起したように、"初めから存在しなかったかのように消されてしまった"人々の存在を想像させるのである。
ということは、ハンスもまた彼らと同様、はじめから存在しなかったかもしれなかったのである。彼らは、一切の手がかりがなく、唯一無二のかけがえのない生をもつ存在としてわれわれが想像することすら容易でない匿名的かつ亡霊的な存在である。郵便的な訂正可能性が透視しているのは、そのような亡霊たちの存在である。

『25年後の東浩紀』352-353頁

そうか、私の夜の住宅街、世界が重む、その話はきっと、それぞれの家の明かりが彼らを照らしている、その「彼ら」が直接見えないことで構造が二重に適用され、それが私に対する適用と重なったからあのような、倫理の初源のように感じられたのか。

2024/6/7「ナルトともなると」

 ここにはいくつも余剰がある。イメージの余剰で言っても「忘却の穴」、「亡霊」、「世界が重む」、「明かり」などなどの余剰が。さらにはここで説明していない「郵便的な訂正可能性」ということや「彼ら」の複数性などなど、それらも余剰であろう。しかし、ここにもし一つ、有益そうな対比が作られるとすればどうだろう。無理やりだろうが作ってみよう。
 と思ったが無理だ。しかし、私が「偶然」から離れた理由が関係しそうではある。私が「偶然」から離れたのは私は私であり、その「私は私である」は言語というメタ制度が作り出したものであるがゆえに語りえないと思ったからである。また、語ってしまうと語りうると思われてしまうと思ったからである。それはそもそものテーマ、倫理に繋がらない。そう思ったからである。おそらく。
 このことを強調するなら、東にはコミュニケーションがある。し、それがあるからこそそこで言われている悲劇性の解釈が成り立つ。しかし、私はそれを少なくとも表には出していない。ただ単に絶対的な差異にこだわり、それを孤絶として描き出そうとしている。しかし、私は孤絶したいのではなく、その孤絶を描くことがなにかしら「倫理の初源」に触れている気がしているからそれをしている。とも言えるかもしれない。もしかすると。もちろん、これは都合の良い解釈かもしれないが。
 東と私(の奥にいる永井)の間にいるのはおそらく千葉雅也である。

私たち=人間は、解釈性を決して放棄できないから(おそらくそうだ)、無解釈的なものの主題化ーーつまり、非人文学ーーがつねに悪しき暴力性を感じさせることはやむをえないことである。もし純然たる無解釈的状況を仮想するならば、それは、互いに何をされても善くも悪くもない、互いに何をされているのかまったく不明な、<無倫理的並立>であるだろう。そうだとしてもそこでは、多様な出来事が異質に経験されている、複数的で異質な思考停止が経験されているのである。

『意味がない無意味』160頁

 正直私はまだ、この文章の威力、そして間-性を充分に理解していない。しかし、ここになんらかのそれらがあることはわかる。しかし、私と千葉はおそらく「<無倫理的並立>」にあるわけではないのだ。それは私が「解釈」で私と千葉を結んでしまうからである。このことの奥底には言語がある。そういうことだと思う。しかし、「そういうことだと思う」としか言えない。元も子もなさ、そしてその倫理。私にはそれが聞こえるような聞こえないような、そんな気がする。
 私のエピソードは亡霊のように私を囲う。私はそれによって私であり、その亡霊に私を見張らせているのである。倫理的であるかどうかを考えさせるために。いや、もしかすると存在するとはそういうことなのかもしれない。
 よくわからなくなってきた。「倫理の初源」なんていう考え方を解体したい。彼らはそう言うかもしれない。私はどうなんだろうか?

推敲後記

 なんだかずっと、ずっと何かを避けている感じがする。意図的かは知らないがそんな気がする。語りきれていないこと、それも意図した語りきれなさではなく、そもそもそれを語るために書き始めたのに書けていない、語りきれていないこと、それがある気がする。それが何であるか、私にはまだよくわからない。
 あ、そうか。私は「私-他人」を「他人-他人」から考えているが、実は私は「私-他人」を「他人-私」に反転させることで、そしてその反転がわからないくらい強度を増すことで世界の重みを理解したのだ。だから、私は結局「他人-他人」なんてわかるはずがないというところを非常に強く持っているのである。
 このことに関係して、私はいつもレヴィナスの文章を読むと「ああ、独我論的だなあ。」と思い、そして同時に「逆-独我論的だなあ。」と思う。このように思うことがどういうことなのか、私はまだ全然わかっていないが、やはり独我論と倫理はここにある気がするのだ。偶然は、どうだろう。欲望の話なのかもしれない。何によって、何を追いかけてしまうことによってそれらの、哲学的営為が繰り返されているのか、なされているのか、そういうことであろう。
 私はデリダやレヴィナス、東や千葉のように欲望的ではない。そもそも欲望を掻き立てる何かが必要なのである。それがない限り私は無気力であり、その「無気力」という規定すらも無化しようとする。それによって私はある意味では悟るのであるがある意味ではアパシーになるのである。無感動。私は感動を追いかけて、そう、一つメタレベルの課題があるのである。私はこういう課題を他の人の文章に感じたことがない。みんな書きたいことがありそうで、考えざるをえないことがありそうである。しかし、私にはそれがない。あるふりをすることはあるけれども。もちろん、みんなも「あるふりをする」だけなのかもしれない。しかし、私は私のような存在としての他人にしかお伺いを立てたいとは思わないのだ。そしてそのお伺いに応答があるとなんだか、なんだか冷めてしまうのだ。
 最後に千葉の文章を引用して終わろう。文脈を設定しなくてはわからないだろうが、みなさんがそれをしてくれればいい。本文でも書いたようにまだ、私と千葉は結構な他人で居続けているからである。

相関性・社会的構築の分析を続けるのと同時に、無解釈的なものに直面して立ち止まる。社会は二重に考察されるーー解釈的/無解釈的に、人文学で/非人文学で。
物が、どうなるかわからないという不穏さ。これは、他人や他人の集合についてもそうである。そのように認めることが、SR[=思弁的実在論:引用者]的な(絞って言えばOOO[=オブジェクト指向存在論:引用者]的な)社会観のひとつの可能性であるーー社会をSR化するという読みとしての。すなわち、一方では、他人に対して解釈的な関わりがなされ続ける。社会構築主義的な分析は継続される。他人とは、レヴィナス的な意味で無限に解釈を引き起とし続ける"解釈不可能"なものであるーーと同時に、そうした解釈の継続とは無関係に、どうなるかわからない、何をするかわからない、勝手な力を潜ませた"無解釈的な"者・物である、そう認めるのである。私たち自身がそのような他人であり物である。

『意味がない無意味』154-155頁

 アパシー、アディクション、欲望、割り切りですらない打ち切り、そういうものを考えなくてはならないのだ。しかし、それでも別に「倫理の初源」はある。絶えず跳ね返すものとしての、「倫理の初源」は、ある。

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