2-1-14 汲めど汲めど尽きせぬ自分
自分が汲めど汲めど尽きせぬものであると思えるなら、もう自分の豊かさと可能性を知っていることになると僕は思います。
そのことは自分から発見したのではなく、他者の豊かさに触れるときに感じるあの嫉妬を忘れさせてしまうような感動と尊敬と平伏する自分の姿をああ、美しいと感じることから学んだ世界と姿です。
ある思想家、ある哲学者、ある文学者、ある優れた人物の著述はいつまで経っても汲み尽くせぬ豊かさそのものであると感じるあの、あの豊かな瞬間と永遠のこと。
それを知ってから、自分という美しさと弱々しくも強い人間を考えるようになりました。僕は。
皆さんがそのような経験、転回を経験したことがあるかはわかりませんが、その萌芽はいつでも感じることのできるものです。
「ああ、美しい。」
よりも美しい言葉を僕は知りません。
言葉にならなくてもいいと思います。
豊かさの経験とは純粋に美しさを感じること、その美しさをなんらかの根拠や理由で自らだと思えるようになること。
だと僕は思います。
自分という測り知れない豊かさとは、探しにいって見つかるようなものではないと思います。
けれど、いつか、「ああ、」と言葉を失い、過去が語るのをただ聞くという経験をするのです。
そこまでの人生とそこからの人生という圧倒的な転回を知ることができるのは、表現し続けている人だけです。
「自分は他者のうちに存在するとき、生き生きとした自分となる。」
というのは、そういうことを言っています。
僕がずっと自分という存在が他者のうちに存在すると言っているのは、そういうことなのてす。
自分以外としか言えない存在、でも、自分のようである他者という存在を知ってしまってから、僕は自分というものを他者のうちに存在すると考えるようになりました。
今日は、なんだかよくわからない話をしてしまいますね。
けれど、僕にとってはこの僕こそが僕なのです。
いくらわかりやすくしようとしてもそうとしか言えないのです。
申し訳ない、と思います。
表現において、限界と可能性は同じ境界の別名、つまり表現の側から見れば限界であった境界は表現者から見れば可能性であるということです。
だから、自分の可能性を語るなどというのは表現という面から見れば限界でしかないのです。語り尽くせぬことを「ああ、もう無理だなあ。」と思ったところに、自分の可能性が表現者の側から生まれ出てくるのです。
ああ、またわかりにくくなってしまいました。
どうすればいいのでしょうか。
これまではいわば「自分という豊かさ」という場を展開していただけの僕の話はこの話においてその場の主体として存在し始めました。
その瞬間にもう限界を迎えてしまっているような気がします。
けれど、なぜか心は穏やかですし、澄み切った水面に映る自分が見えています。
僕はもうナルキッソスです。
自分で自分の可能性に触れるというのはそういうことなのかもしれません。
それを記述する難しさは笑ってしまうほどの難しさです。
何を言いたいのか自分ではわかっているつもりです。しかし、表現が追いついてこないのです。
「ああ、残念だ。」と思いながらもどこか安心している自分は美しいのか、醜いのか、僕はもうわかりません。
けれど、僕はその自分を愛していますし、誇らしくも思います。
僕は「自分探し」とか「本当の自分」とかを笑って嫌いますが、それは美しさを取り入れたいという感情のある種のバリエーションなのかもしれません。
批判という行為の本質は愛を伝えきれない人間の美しさの表現なのかもしれません。
終わりどころがわかりません。
このまま記述すれば、僕の汲み尽くせぬ自分は溢れ出て、永遠の記述を可能にするでしょう。
なので、ここらへんで話は終えておいて、これからの文章にそれを託すことにします。
「記述することが問題であって、説明したり分析したりすることは問題ではない」と言ったメルロ=ポンティは表現者としての宣言をしていたのだと知れただけでもこの一連の話は意味があったのだと思います。
説明や分析は終わりを設定せざるを得ない。記述はいつまでも続いていい。僕が死んだ後も誰かが連名していってくれる。
この心の穏やかさはその未来への期待と現在の自分がする表現を豊かに捉える心の優しさと深さの現れなのかもしれません。
ああ、豊かです。
自分は。