掃除論
ある時期、部活の顧問、怖い顧問が「朝掃除」にはまっていた。いや、はまっていたのかは知らないが、黙々と「朝掃除」を遂行している時期があった。その顧問の名誉のために言っておくと「朝掃除」は顧問が勝手にやっていただけで私たちは「朝練」をしていた。し、していないものもいた。別に「朝練」は強制参加ではなかったからだ。「朝掃除」はおそらく、その時期の顧問にとっては強制参加であった。あの時期はなんの時期だったのだろうか。いまではよくわからない。
私は割と掃除が好きである。別に特に工夫したり毎日したりするわけではないが、するとなったら結構楽しくやるのである。それはなぜなのだろうか。
一つのクリシェ的な解答として「無心になれる」ということがあるように思われる。汚れは大抵掃除をしさえすれば確実に取れ、取れないものに別にこだわる必要もない。それは仕方のないことだからだ。そして「仕方のないことだ」と思うまでもなく、それはそもそも固執されないのだ。この絶妙な塩梅が「無心になれる」の中身なのではないだろうか。することはあるがしなければならないことはない。それを保つリズムが掃除にはあるのではないだろうか。
もちろんすべての掃除がそうだと言いたいわけではない。しかしそれを差し引いても掃除にはそういう特徴があると思われるのである。あの頃の顧問も「無心になれる」と思って掃除をしていたのだろうか。普段も別に挨拶とかには厳しくなかった顧問だが、掃除をしているときはなおさらそうであったような気がする。挨拶をしたら少し迷惑そうですらあった、ような気がする。結構前のことなので正確には覚えていないが、そんな気がしてきた。この文章の流れによって、だが。
なぜこんなことを思い出したのかはよくわからない。遠因として毎日部屋の掃除をしている同居人がいることが考えられるかもしれない。まあ、あくまで「遠因」だが。ああ、一つ「固執」してしまった。何かを思い出すことには理由がある、という「固執」。