正木ゆう子から鑑賞を学ぶ10

ここからするのは「正木ゆう子から鑑賞を学ぶ」シリーズの振り返りのようなものです。「ようなもの」という曖昧な言い方をしているのはここまでに投稿した九回分をとりあえず読んでみようと思っているからです。言い換えれば、ここから何を書くか、私はまだ決めていないのです。ただ、紛いなりにも九回学んだわけですから、いくつかのことは書けるでしょう。し、そのうちのいくつかはこれからの私の俳句人生にとって重要なものになると思います。

「正木ゆう子から鑑賞を学ぶ」の説明をしでおきましょう。これは私がはじめたシリーズで、文字通り正木ゆう子という俳人から鑑賞のなんたるかを学ぼうというシリーズです。していることを具体的に言えば、『現代秀句 新・増補版』を読んで、それを句の引用→私の感想→正木の鑑賞→感想の変容という形で整理するということです。一つでも読んでもらえればわかるので説明はこれくらいにしましょう。ちなみにここからの文章は読まなくても理解できるように書くつもりではあります。まあ、ただの予定なのでわかりませんが。読んだほうが理解は深まると思います。俳句は作ってみたほうが理解が深まるのと同じように。では、読んできます。メモをするかもしれません。

第一回

『現代秀句 新・増補版』もそこに入るであろうアンソロジー系の、そして短い鑑賞が含まれているような本では少なく見積もっても二つの選択がなされています。どの句を取り上げるか。その句をどのように取り上げるか。この二つの選択がなされています。もちろん、俳句には権威的なところがあって、この句は引くべきでしょ、みたいな句があると言えばそうでしょう。しかし私は初学者ゆえ、「この句は引くべきでしょ」すらわかりません。だから、ここには二つの選択があるのです。いや、初学者ゆえに逆に選択がないと言えるかもしれません。まあ、それは置いておいて、その二つの選択に鑑賞者、今回で言えば正木ゆう子の個性はそれとして仕方なく現れるのです。

「秀でた詩というのは「秀でている」と言い切れる優れた詩人によって存在する」。これは私の詩(人)観の端的な表現です。端的でいいですね。感想みたいになってきちゃってます。私はまとめるのが苦手なのです。

私は結構厳格な基準を作っています。どこから学ぶか、を選ぶにあたって。まあ、守られはしていないんですけど。その基準というのは「詩人の存在価値が大きい詩とそうではない詩というものがある」が前者をこのシリーズでは扱い、さらには「鑑賞自体が詩のようになっているだけのもの」はこのシリーズでは扱わないというものです。まあ、何度も言いますけど守られてはいません。特に「鑑賞自体が詩のようになっているだけのもの」を私はいくつか読んで、いくつか選んでしまいました。

「具体的なイメージ」にする≒「具体化」というのが私の苦手分野なんですよね。これは第一回だけでなくずっとそうですが。なんというか、これは鶏と卵の話になってしまうのですが、そもそも「具体化」をするというモードにならないんですよね。私は。さらには「具体化」ができるほどの知識もない。こう聞くと絶望的ですが、私も私なりに鑑賞はしています。まだ流れはうまく掴めていませんけど。この頃の私は。

「駄作にしてみるみたいな手法」は結構重要な手法ですよね。鑑賞をするにあたって。まあ、私はそれよりも、もっといい作品にする、みたいなことが好きなんで、「鑑賞」よりも「改作」が好きなんで、まあ、本当は鑑賞者よりも改作者になりたいんだと思いますけど。私自身は。でも、それにも鑑賞は必要です。そういう意味で言えば、この後言われていないと思いますが大きな意味での「鑑賞」と小さな意味での「鑑賞」があるのかもしれません。まあ、そう言いつつも、私はその二つが分離不可能だということがむしろ大事だと思っているのですが。

「このままではすべての頁を引用することになってしまうのではないか、という不安が頭をもたげる」と私は言っていますが、事実そうなっています。いまのところは。ただ、その後に「それが不安であることは錯覚であると思う」と言われているように、私はいまその不安が「錯覚」であるとも思っています。

「私のなかで「カップリング」と「ペアリング」は違う。なにが違うのかと言われると難しいところだが、二つの物事が相互浸透している場合は「カップリング」で、そんなことはない度合いが強くなっていって、どこかを越えると「ペアリング」になるのだと思う。ここからのキーワードかもしれない。」このキーワードはおそらくこの後使われていませんが、これから、第十一回から使っていってもいいかもしれません。

第二回

まだ、この時点では「句の引用→私の感想→正木の鑑賞→感想の変容」という形ができていない。ただ、それだからこそ逆にちゃんと学んでいるとも言えるだろう。最近の私は私とこのシリーズを読む人とを並べ、机に座らせ、正木は先生に、正木の鑑賞はそれ自体一種鑑賞されるようなものになってしまっている。

正木にできて私にできないのはある句をその句を作った俳人の人生のなか、どこかに置くことである。ただ、私は正直、「具体化」できないことよりは別にいいかな、と思っている。そのことを。もちろん「具体化」に必要なときもあるのだが、それはなんというか、そういう種類の詩であるだけだとも思っている。

そう決めるのはまだ早いと思うが、私はこの回が今のところでは一番好きである。なんというか、私が好きな鑑賞は「私とあなたは違う」とにこにこするような鑑賞であり、そのにこにこすることによって句がホログラムのように、そして俳人がリアルに存在する、そんな鑑賞なのである。この文章ではそれがたまたま達成されていて、それゆえに私はこれが一番好きである。いまのところ。ちなみにこの「ホログラム/リアル」という対比は私の「集句」という「連句」とも「類句」とも異なる「句」の在り方の構想に大いに関わってくるような予感がする。

第三回

ここから「句の引用→私の感想→正木の鑑賞→感想の変容」というリズムができてきている。これが第二回での達成と関わりがあるかもしれないというのは淡い、しかし面白い予想であるように思われる。が、進もう。

ああ、これはいつか書こうと思っていたのだが、「句の引用→私の感想→正木の鑑賞→感想の変容」という形通りに私は知覚を展開しているわけではない。私のしていることを時間の流れ通りに書くとすれば、句と正木の鑑賞を読んで、句を読み直して私の感想を書いて、「句の引用→私の感想→正木の鑑賞→感想の変容」という形にしている、というのが正しい。ただ、だからといって「正木の鑑賞」に繋がりすぎないようにしようとは思っている。なんと言えばいいか難しいが、薄目で覚えているのである。で、自分の感想を書いてからちゃんと見て、ちゃんと覚えようとしているのである。伝わったかは心もともないが、とにかく私はそういう順番で書いている。

まだ「正木の鑑賞」の軽いまとめをしている。第二回もまだしていた。私たちはまだ生徒になっていないのだ。

この回が「学び」としては一番深かったと思う。なんというか、私もちゃんと変わっているし、その変化の必然性も感じられるし、変化した後でも正木に「私とあなたは違う」と言えているし、そのことが永田耕衣(ここで取り上げられている俳人)のリアリティを生み出しているし。なんというか第三回は正木以外の他人にも頼って(この会も他人に頼ってはいるのだが)リアリティを生み出した、し、永田自体の存在感はなかったが、今回は私と正木の関係だったから永田の存在感があってよかった。

第四回

うーん、観点自体は鋭いけれど、その鋭さを充分に活かしているとは思えなかったなあ。ただ、escalation(と直接は言っていない)とか、その中身としての映像の動かし方とか、映像ではない仕方で動きを出す方法とか、そういうことに触れているところは鋭いとは思った。まあ、どれかに絞って書けたら傑作になったかもしれない。まあ、自分で書いているように時間がなかったのかもしれないが。

第五回

なんというか、正直よくわからなかった、というのが、学ぶにしても何を学べばいいかよくわからなかった、というのがひしひしと伝わってくる。ただ、「学び」に関して「「学ぶ」というのはAをAとして教えられるということではなく、Aを教えられることでAではなくBがわかったということでもあるのだ。」と書いているのは苦し紛れの言い訳というか希望というか、そういうものだったとしても本質的だと思った。拙い表現ではあるが。

私はここで引かれている句と正木の鑑賞とに苦言を呈している。「別に「どちらとも取れる惑わし」があってもいいとは思うが、それはどこかで一時的にでも構築されるものがなくてはならないと思う。私にはこの句が「一句の中に実世界と同様の奥行きを持って、どこまでも鑑賞者の侵入を受け入れてくれる。」感じがしなかった。だからかもしれない。私は正直、この句を秀でた句だとは思わなかった。」と。ただ、この見立ては怒りに任せていて、本質的なところが掴めていないと思う。というのも、「一句の中に実世界と同様の奥行きを持って、どこまでも鑑賞者の侵入を受け入れてくれる。」というのは正木の次の箇所からの引用なのだが、引用するべき場所は別のところだったと思うのである。

愛唱することと、鑑賞を書くこととの間には、たとえば一個の林檎を眺めることと、食べることほどの違いがある。書きながら、どんどん一句の世界へ引き込まれてゆく喜びを、この一年の間、何度味わったことだろう。優れた句は、一句の中に実世界と同様の奥行きを持って、どこまでも鑑賞者の侵入を受け入れてくれる。
『現代秀句 新・増補版』「初版後記」(変な引用の仕方だがなぜか「初版後記」には頁数が振られていないので仕方ない。)

私はむしろ「侵入を受け入れてくれる」ことと「引き込まれてゆく」こと、さらには「引き込まれていく」ところまで近づいていくことを区別するべきだったと思われる。この区別で言えば、私は頑張って近づいたが「引き込まれてゆく」ことはできなかったのである。ここで引かれている句に、そして鑑賞に。

第六回

この回は「(6)」となっているようにそれ自体番外編的な回である。が、私の「私とあなたは違う」とにこにこすることにおける潔癖症みたいなものが見えて面白い。ここまでの流れから汲むと、だが。

第七回

うーん、この回は書くことが多すぎるねえ。とりあえず列挙してみましょう。
・カップリングとペアリングと「想像法」、そして「作句法」および「作句法」と「想像法」について
・句の「重層的」である仕方について
・再び「侵入を受け入れてくれる」こと、「引き込まれてゆく」こと、「引き込まれていく」ところまで近づいていくことについて
・「愛唱」と「鑑賞を書く」について
多いですねえ。そしてどれも長そうです。とりあえず列挙するだけにしておきましょう。

第八回

うーん、語れることは他にもあるけれど、とりあえず重要なのは「「集句」というのは連句から順番性を剥ぎ取ったようなもので、類句から分類性を剥ぎ取ったようなものである。」というふうに「集句」を定義しようとしたところかなあ。

第九回

うーん、やっぱり依然として「具体化」の力量の差に目を向けている。私と正木の。まあ、それはいいとして、より重要なのはスケールの連鎖があって、その連鎖の一部分を示すことで全体を想像させるような詩性とその連鎖が連鎖であることができるかどうかのギリギリを示すことで全体を想像させるような詩性とがあるということである。もちろんこれは詩性のすべてではないが、私はこの二つをこのように整理できるものとして考えている、とみなせると思った。この回を読んで。

さて、ある程度重要なところだけ振り返ってきたが、これらをまとめるのはまた今度にしよう。夜ご飯を作らなくてはならない。とりあえず投稿しておこう。また第二十回でここまでのことも踏まえて考えることができるかもしれない。

さすがに、と思って読み直した。が、まだまとまっていないのでやっぱり書けなかった。ただ、一つだけ書いておく必要があると思ったのは「句」のステイタスとして、もちろんそれぞれの詩人との関係のなかで、ではあるが、誘惑する力がある/ない、と、誘惑されて近づいた上で、引き込まれる/引き込まれない、と、侵入を受け入れてくれる/受け入れてくれない、とがあって、「誘惑する力がある/ない」は第一関門で、「引き込まれる/引き込まれない」と「侵入を受け入れてくれる/受け入れてくれない」は第二関門の二つの異なる、しかし裏返したような関係にある形態だと思った。この二つの門を潜ることでやっと、秀句は秀句になる、と思った。

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