理解についての覚え書き

理解についてアイデア出しをしよう。

まず、「了解/理解」という対比がある。「理解」というのは「対比と対比を対比させること」である。とりあえずそういうことにしよう。だから「理解」というのは形式化すると「(A/B)/(X/Y)」だということになる。「理解」においては基本単位がこれ、すなわち「(A/B)/(X/Y)」なのだ。あくまで二つの対比と一つの対比が一挙にあらわれている。そのことが重要なのである。それに対して「了解」は「A/B」や「X/Y」それ自体を単位とする。ただ、「理解」をそれとして示すなら「了解」は「理解」になるしかないんですよ。たぶん。このことがここでのモチベーションなんすよね。

いやあ、雑すぎるなあ。まあ、うん、仕方ないかもしれないけれど………。とりあえず「理解」の定義が雑いなあ。「対比と対比を対比させる」だと「二つの対比」がすでに一つの仕方に限定されている、いや、精確に言えばある程度限定されているから「対比と対比を関係させる」みたいな抽象度が必要なんじゃないかと思う。あと、「させる」っていうのが、うーん、「させる」誰かがいるように見えちゃうから、でも、モチベーションは「了解」が「理解」になっちゃうみたいなことだから、その点で言えばまあ、「させる」みたいに「させられる」的な可能性を残す必要があるとも言えるかもしれない。

なんというかねえ、そもそも「意味」がね、「理解」でしかわかることができない、みたいなのが出発点なんですよ。ただの「対比」じゃあ無理で、「類比」にならないといけないっていう。ここでの「対比」は「A/B」とか「X/Y」のことで、「類比」はあくまで一つのパターンですけど「(A/B)/(X/Y)」のことです。ここで一つ操作を加えて、「(A/B)/(X/Y)」における「(A/B)」を「α」、「(X/Y)」を「β」と書くことにしましょう。すると、「(A/B)/(X/Y)」は「α/β」になるわけですけど、この「α/β」はこれだけなら「了解」に過ぎなくて、それは少なくとも共有はできないんですよね。別にできると見てもいいけれど、その場合は「α/β」が「(A/B)/(X/Y)」みたいに開かれるか、もしくは「α/β」自体が「(α/β)」になるか、すなわち「(α/β)/(γ/δ)」になるか、どっちかによって可能なんですよね。私はそう思うんですよ。

そもそもなんでそう思っているのか?と言われてもよくわかりません。なんでなんでしょうね。とりあえず用語を整理しておきますか。「対比」と「類比」があって、「対比」が「対比」になることを「開く」と言っていました。なので逆は、すなわち「類比」が「対比」になることは「閉じる」と言いましょうか。

バスで書いているので酔ってきました。少し中断します。

まだ気持ち悪いけど、一つだけメモしておくとすれば「開く」も「閉じる」も「理解」の基本単位、すなわち「(A/B)/(X/Y)」みたいなものを目指すものである。なんで「目指す」のかはわからないが。

あと、まだまだ気持ち悪いのだが、上で「対比させる」よりも「関係させる」だろ、と言ったのは「類比」は極めて合理的なときの形式であって、たいていは連鎖しているからである。つまり、「A/B-C/D-E/F-………」みたいになっていると思われるからである。

うええ。気持ち悪い。

家に帰ってきた。とりあえずアイデアは出していこう。

連鎖からある「類比」を取り出すには主題が必要である。これをもう少し行為的にすれば、切断が必要である。

ある「対比」には「理解」に向けて二つの可能性がある。一つは違う「対比」と「関係させる」という可能性、もう一つは「対比」を「開く」という可能性。連鎖と主題もしくは切断の関係を考慮に入れれば、前者は「閉じる」のほかに「連鎖する」みたいなことがあると言える。後者は「主題」にする、「切断」みたいなことであると言える。

うーん、ある物事とある物事とが「対比」になるためにはそもそもそれらが近くになくてはならない。そして近くにあるだけではなく関係しなくてはならない。さらにその関係を対比であることにしなくてはならない。それぞれの状態のことを「近接」「接続」「対比」と呼ぶとすれば、それぞれに「主題」があるわけである。それゆえにそれぞれに「切断」があるわけである。連鎖は基本的に「接続」のところにあって、他は「近接」のほうが集合、「対比」の方が、うーん、舞台?、なんかいい用語は思いつかないけれど、とりあえずそういう感じ。

だから「関係させる」のなかには「近接させる」「接続させる」「対比させる」があることになる。だから「対比させる」を「関係させる」まで拡張する必要があるのだ。ただ、このことは「類比」だけじゃなくて「対比」にも言えるから「(A/B)/(X/Y)」の真ん中の「/」だけじゃなく「A/B」も「X/Y」も「α/β」の真ん中の「/」も「関係させる」でいいと言える。

「対比」の記号を「/」だとして、「近接」は「・」、「接続」は「-」だとすると、AとBもXとYもαとβも、その「と」を「/」にも「・」にも「-」にもできるわけだ。

で、「対比」は「/」だけだとして、「類比」はどうなのかと言えば「/」と「-」のどっちでもいいわけよ。で、「じゃあ『対比』に『/』は任せて『類比』は『-』だけ担当してたら?」と思うかもしれないけど、それだとなんだか都合が悪そうな気がするんだよね。なんでだろう。

うーん、難しいなあ。「対比」は「類比」になる(可能性がある)し、「類比」は「対比」になる(可能性がある)し、その開いたり閉じたりの、そのダイナミズムが大事なんだよね。いや、そもそも「対比」よりも「対立」の方がいいかもしれない。「/」は。あと、「(A/B)」と「A/B」は区別したほうがいいかもしれない。いや、というよりも「類比」における真ん中と「対比」における真ん中を区別したほうがいいかもしれない。でもこれって「了解」と「理解」をどう考えるかと結局同じのような………。

「連鎖」の問題系はとりあえず外すとして、ここまでの話をぎゅっとつづめると私たちの「理解」には「(A・B)・(X・Y)」または「α・β」、「(A-B)-(X-Y)」または「α-β」、「(A/B)/(X/Y)」または「α/β」があって、「理解する」には「(A・B)・(X・Y)」を「α・β」にする=「閉じる」と「α・β」を「(A・B)・(X・Y)」にする=「開く」、「(A-B)-(X-Y)」を「α-β」にする=「閉じる」と「α-β」を「(A-B)/(X-Y)」にする=「開く」、「(A/B)/(X/Y)」を「α/β」にする=「閉じる」と「α/β」を「(A/B)/(X/Y)」にする=「開く」があるということになる。もちろん頻度が低いものやそもそもよくわからないものはあるかもしれないが、とりあえずここではここまでは行ったことにしておこう。

「理解する」と「説明する」が同じことの表裏なのだとしたら「説明する」は「閉じる」ことと「開く」ことをそれとして見せることであると言えるかもしれない。

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