改作と鑑賞6
「改作と鑑賞」をしましょう。ただ、いつもよりもゆるくやります。これまでの「改作」はその句の目指していることをよりよく表現することを目指すものでしたがその句によって作れそうな句を作り過ぎたら困りますけど作りましょう。また、「鑑賞」はその句のポイントを掴むことだと思うのですがそこまではいかなくてもただ単に「すごい」よりは細かければ感想でもいいと思います。では、やっていきましょう。すらっとしたストライドで。
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夜光虫光の定義より生る
なんというか、難解な句ですけど、私は「光の定義」がそもそも闇によってしか可能ではないということが「夜光虫」に強調されているところがポイントだと思います。「定義より生る」というのは頑固さを感じますが、それもまたいいのではないでしょうか。難しいですね。やっぱり。ただ、この句はこれ以外の在り方がよくわからないので何もできませんでした。私がより良き鑑賞者になるだけ、という感じがします。そうなれば自ずと改作の可能性も開くかもしれません。
蝌蚪居たりコンクリートに二、三匹
いるはずはないですよね。ただ、コンクリートを見てみると、たしかにおたまじゃくしに見えるところ、石とか模様とか、そういうものがある気はします。コンクリートは泳げませんけど、そんな野暮な表現はしませんけど、それでも面白みのある句だと思います。
まだ夢に見る先生の夏休み
→まだ夢を見る先生の夏休み
うーん。なんというか、曖昧で掴みにくいですね。「を」よりも「に」のほうが良かったかもしれません。
→明日から夏休みです先生も
ギャグみたいですけど、どこか行っちゃう感じがして、そういう寂しさがありますね。
耳が鳴る耳自体が鳴る雁遠く
これはだめですね。「雁遠く」が「これ付けときゃいいんでしょ」感が満載で。「耳自体が鳴る」も正直よくわかりません。
→耳鳴りは鳴き声を聞く準備なり
無季ですけど、これのほうがいいですね。なんというか、幻聴とか幻視とか、そういうことって準備に見えるんですよね。いや、今日そう見えたんですよ。もちろんただの異常であると言えばそうなんですけど。そうなんですけどね。うん。
夕立と水と鴉と外套と
なんか、昔(と言えるほど前ではないですけどもう「昔」と言いたいです)はいい句だと思っていたと思いますけど、いまはまったくです。にこにこ。
→撥水の外套着れり旅鴉
「旅鴉」は鴉じゃないですけど、「撥水の外套」を着ているのは鴉だと思う、というか、元々の(と言ってもそもそもは「旅鴉」が元々の「鴉」の一部を強調していると思いますけど)意味の「旅鴉」だとそんなものは来ていないと思います。
→初鴉今日は鳴かずに一人なり
なんというか、鳴いちゃうと集まっちゃう感じがして、それを褒めている感じがして、なんだか変な、しかし実感がありますね。
耳に飛ぶサイダーの音聞けりとき
一回読んで、もう一回読んじゃいますね。はじめは「耳に飛ぶ」が「音」だと思うけれど、普通に「サイダー」が、炭酸が弾けて耳に当たっている。そんなに近いんだ、みたいな感じがします。ただ、そうなると「の」はなんなんだ、みたいにもなります。不思議ですけど、悪い不思議さではないと思います。「とき」も瞬間もある程度幅のある時間も示せますから、いい意味で曖昧な気がしますね。悪い意味での曖昧もあると思いますよ。まあ、具体例は出さないですけど。
昼の木も夜の木もみな揺れている
これは改作後の句です。元の句は「昼の木も夜の木も揺れている」でした。私としては元々の句も散文がギリギリ韻文になる可能性に賭けたんですけど、まあ、うまくはいさなさそうだったので一応、というかまあ、改作しておいたんでしょう。きっと。句意はなんですかね。「〜も」が連続してきて、最後にここで終わったような、そんな感じがしますね。しかも「揺れている」で終わるという、変な終わり方です。
昼寝する胸の上下に悟りおり
何を悟ったんでしょうね。実はこの句も改作後の句で改作前は「昼寝する胸の上下に死を悟りおり」と書いていたんですけど、やっぱりこっちのほうがいいですね。「悟り」にはピシャッと系の「悟り」とゆんだり系の「悟り」がある気がしますね。ピシャッと系を作ってみますか?がんばります。
→悟りけり後ろで障子閉まるとき
あんまり、正直満足してはいませんけど、こういう感じがピシャッと系です。「けり」と「おり」が象徴的だなあ、と思います。もちろん「胸の上下」と「障子閉まる」も象徴的な対比なんですけどね。うん。
緑蔭の小指より苔生しにけり
これ、昨日かな、「緑蔭の小指から苔生しにけり」という元の句に「あんまりっすねえ」みたいなことを優しく言ったんですけど、これはとてもいいですね。「小指より」である必然性があると私は思いました。単純に言えば「緑蔭」に座るときには苔のところには座らないだろうという必然性です。そして「座る」ことがないとそもそも「小指」という発想は出てこないという必然性です。いい句ですねえ。やっといい句になりました。私がいい鑑賞者になったので。
草いきれ炭酸となれ奪いきれ
これねえ、粗いと言えば粗いですけど、大好きなんですよね。「れ」でリズムを作っているというのは言うまでもないですけど、「草いきれ」を誤読っちゃあ誤読ですけど、「いきる」と取って、それが間違っていると知りつつ、それでも「炭酸となれ」「奪いきれ」と勢いだけじゃない勢いでスピットして、そういう心地よさがあります。
沢蟹や水の中にて乾きおり
→横歩き甲羅の中の瑞々し
どっちも好きです。「改作」は別によりよくしようとすることではあってもどっちがいいかはわからないときもあります。試行錯誤なんですよ。本当に。「横歩き」がなんだかあまり聞いていないからもっと抽象的に
→動きける甲羅の中の瑞々し
いやあ、もっといけそう。「甲羅の中の瑞々し」がめちゃくちゃいいから。
→座りけり甲羅の中の瑞々し
うーん。深追いはやめておきましょう。今日はこれくらいで。いつかかたまるでしょう。塊になるでしょう。もっといい塊に。
青蛙余力残して跳びにけり
「もっと跳べ」という解釈があると思いますけど、洗練されているからこそ「余力」があるように見えて美しい、みたいな解釈も、というか、美しいのは「余力」があるからだという解釈も、さらにはその解釈はさまざまな意味で病んだ人々のことを照らし出すという解釈もある気がします。私はとても近くで観察する、病気がちな、アリエッティに出てきた青年みたいな視線を感じました。
栄螺捨つ海は静かに悲しめり
発想はいいですね。秀句くらいにはなるでしょうけれど、名句にはあと一歩という感じですね。なぜでしょうか。
うーん。改作しようとしたのですが、とりあえず今日は無理そうです。ただ、今日は調子が良い、というか、いい句が多いです。この日。
滝飛沫空のまなこに見られけり
うーん。素材というか発想はいいですけど、「滝飛沫」がなんだかひっかかりますね。
→一筋の滝の粒子の集まれり
うーん。結構いいけど、元の句とは離れたことよりも、うーん、なんというかなあ。
うーん。無理でした。ただ、凄く可能性は感じます。生きていくきっかけくらいにはなりそうです。
幼児が耳に入れけりしゃぼん玉
→幼児の耳に入れけりしゃぼん玉
「幼児」は「おさなご」と読むと思います。わざわざ字足らずにする意味がないので。私は、ですけど、改作前はびっくりしつつも「まあ、幼児なら入れれるか」みたいな適当さがあって、それがゆったりしていて、しかし危なさもあっていい感じがします。改作後は「幼児の耳」で切れてしまう、いや、それならそれで、示唆的な句ではあるか。まあでも、ちょっと教訓的になっちゃいますね。それを避けるとすれば、改作後のほうが習慣性を感じます。「耳」に「しゃぼん玉」を入れるという習慣を感じます。変な感想ですけど、そんな感じなんですよ。
バイク行く赤血球まで凍りけり
冬のバイクは寒いです。とっても。ただ、「赤血球」である必然性をあまり感じません。感じられていないだけですかね。「赤血球」になにを入れたら句になるんですかね。名句に。
→バイク行く耳小骨まで凍りけり
うーん。眠たくなってきています!私自身が。そろそろ夜ご飯を作らないといけません。作ります。ここからの改作はささっとしたものです。このスタイルもいいかもしれませんね。最初にある程度改作しまくって、そこからは鑑賞に集中するという、そういうスタイル。「耳小骨」だと寒すぎてキンキンする感じが身体的に訴えてきていいと見ることもできるかもしれませんね。
戻ってきました。では再開しましょう。少ししょんぼりしました。その影響があるかはわかりません。
イヤホンを反対につけて春近し
→イヤホンを反対につけ春近し
音数を揃えただけです。改作後のほうがいいと思います。もう少し普段から音数を気にしたほうがいいですね。私は。それはそれとして、私は「イヤホンを反対につけ」ていたことに気がついて、何かを誤魔化すように「春近し」と呟いた感じに読みました。イヤホンってたまに反対につけちゃうんですよね。設定によっては反対につけても影響がないと思いますが、この人は影響がある設定だったんでしょうね。なんかの拍子に気がつくんですよね。違和感で。装着感というよりは音楽が変な感じがして気がつくことが多いと思います。「春近し」もそんな感じがします。私は。私も。
北風や鮪の如く生きにけり
うーん。なんというか、なんとも言えないですね。悪い意味で。詩情が感じられません。「鮪の如く生きにけり」がスッときすぎちゃうんでしょうね。困ったことに。
隙間風産毛にはまだ早いでしょ
→産毛にはまだ早いでしょ隙間風
うーん。「産毛にはまだ早いでしょ」というのはいいフレーズですけど、「隙間風」かなあ。さっき(と言っても結構前な感じがしますが)の改作では順番だけ変えてますが、私は後者のほうがいいと思います。だから「○○○○○産毛にはまだ早いでしょ」にして考えてみましょう。
→春の雲産毛にはまだ早いでしょ
うーん。風がいいかな。やっぱり。
→風光る産毛にはまだ早いでしょ
うーん。このときに捕まえきらないといけなかったなあ。いまじゃもはや作り直すことすらできないや。
障子貼る特に何にも考えず
まあ、なんかは考えているんでしょうけど、そしてこんなことを訊く人もいないでしょうけど、「特に何にも」と言うんでしょうね。障子を貼った人は。なんというか、貼っている途中に訊けば教えてくれるかはともかくとしてなにか考えているふうになるでしょうけど、終わりたてくらいは「特に何にも」となる、そんな感じでしょうね。おそらく。いい感じです。
夜焚き火や皆少しだけ興味なし
→夜焚火や皆少しだけ興味なし
まあ、別に改作する必要もなかったかもしれませんが、なんというかこの表記のほうがそっけなさがあっていい気がします。暗闇に火がぼおっとしている。傍らを通る私たちは興味があるけれど、その周りの「皆」は興味がない。そんなふうに読んでもいいですし、他の読み方は提示はできないですけど、なんだか私は深い人生訓というか、そういうものを感じます。俳句を人生訓にするのはくそですけど、それでも深い真理性を感じます。
悴んで二時間後には眠りけり
俳句は断言の文芸だと、そんなふうなことを飯田龍太が言っていましたけど、それが遺憾なく発揮されています。実際に二時間後に眠るかはわからないですけど、もはや悴んでから眠るまでを「二時間後」と呼んでいるような、そんなおかしみすらあります。
仔猫跳ぶぴょーんすたたた無表情
→愛嬌もなく遊びけり猫の恋
「猫の恋」が浮いているのでもう一度改作しましょう。あと、「愛嬌」もなんというか、下品です。直接的すぎて。
→仔猫跳ぶ走る跳ぶ寝る無表情
よくわかんなくなってきました。まだ眠いです。寝てませんからね。結局。
→爪を研ぐときだけ笑う仔猫かな
私はなんとなく、「爪を研ぐ」ときの猫は少しだけ、顔には出さず、しかし確実に笑っている気がします。なんとなく。
鳥の巣の出来上がり即子が住めり
→鳥の巣の出来上がり即子の住めり
実際には「即」じゃないからいいんですね。この句は。「が」も「の」も変わらないかもしれませんが、「が」だとトートロジー感が増します。少し邪魔かな、と思ったのでしょう。その感じが。
風車我は止まりて君回る
→風車君は止まりて我回る
うーん。どっちがいいかは迷います。たぶんですけど、頭の中に「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生」(栗木京子)があったと思います。「風車」と言えば「街角の風を売るなり風車」(三好達治)はめちゃくちゃ名句ですよね。
→風車止まれば歩き出せぬかな
風車を持っていたとして、それを見ているときはたぶん止まっているでしょう。で、一通り見て、歩き出そうというときはくるくるくるくる回っているときかなと私は思います。
→風車我とは違う風愛す
いいっすね。「これでまわるやろ!」と思ったらまわっていなくて、逆に「これでまわるんかい!」みたいなときもあって、それで「俺とは違う風が好きなんだな」と納得する、そんな、風を愛する者同士の、少なくとも片方、「我」からは一方的な同志感を持つという、身勝手さというか、おおらかさというか、そういうものを感じました。
桜はね左利きのほうが多いのよ
桜にも正面があって、ということは前と後ろがあって、上と下はあるから、左と右もあるわけです。もちろんそれだけじゃあどちら利きかはわからないので、風が吹かないといけません。
このシリーズは推敲しないことにしているので誤字があったり変なところがあったりしたらいい感じにしておいてください。最後のやつ一つ書き忘れてました。「多いのよ」は教えてあげている感じの「多いのよ」ではなくて「うちの子そういうとき多いのよ!」みたいな感じだと私は思いました。