適当にぼんやり、ぶちぶち

猫が寝ているのを見ていた。私はいつのまにか寝ていた。少しだけ頭が痛い。私は思い出していた。何があったのか、何があったのか、私は思った。どうして何がなかったのかは思い出せないのに可能性なんてものがあるのだろうか?と。どこか私たちは勘違いしているのではないか、と。しかし、私は頭が悪くてそれが何か、それがいまいちわからなかった。いや、いまいちどころか、まったくわからなかった。

わからないのはなぜか。それを考えてみることすらできなかった。それは考えてもわからないからではなく考えられないからである。疲れているからではない。少し頭が痛いからである。めちゃくちゃ痛いわけでも、痛いわけでもなく、少し頭が痛いからである。気になってしまうのである。しかし、この中途半端な痛みに私は何かを感じた。

何かを感じた。これは宣言である。何を感じたかを考えよう、という宣言。実は何も感じていなかった、これを言わせないこと。宣言。契約にも似ている。

私はかつて素晴らしい小説をいくつも書いていた。そのときはわかっていなかったものもたくさんあるが、私は素晴らしい小説を書いていた。しかし、どうにも書けそうもない。どうにも書けそうもない。溜めが足りないのだろうか。あのときは書き始めだったから、それまでのすべてが溜めになったのか。凝縮に、眠りに、なったのか。

この猫がもし眠らない存在なら、私はそれを可愛いと思うだろうか。どうも私にはそうは思われないように思われる。擬似的な睡眠もなければ、私たちはそれを可愛いと思うだろうか。部屋から出て、部屋に帰ってくる。その擬似的な睡眠がなければ、この猫は可愛いのだろうか。いや、可愛いなんてことはあり得るのだろうか。

私は昔の小説に面影を、面影を見ることでその小説の価値を測り損ねているのかもしれない。しかし、それでもいい。私の創作の根本的なところにこの、勝手にしてくれ私は評価する、性はある。私はそう思う。とりあえず作ること、私はそれをしていた。いつのまにかしていた。そしていつのまにか肯定できるようになっていた。愛せるようになっていた。私はそれを私の努力とか才能とかでもなく、周りの助けや教えとかでもなく、ただ単に見つけた。しかし、実はそんなことはありえないのだ。このありえなさが私たちの宣言なのである。

やけに聞き感触の良い、音楽を聴いている。シルキーな音楽を聴いている。これはたしかにHIPHOPではないかもしれない。しかし別にそれでもいいという、そう言っても宣言は保たれるような、そんな許しがある。し、その許しをどうでもいいと言えるだけの実力?いや、強度がある。

強いと言ったら弱くないことになる。言説はそうやって端と端を恥ずかしがらずに貼り付ける。私はそれが恥ずかしい。習慣の差。習俗の差。

私は私の好きな音楽を聴く。絵画を見る。本を読む。誰かは私にきく。「なんで好きなの?」と。私は答えない。答える努力をしない。できないのではなくしない。いや、そういうわけでもない。ただ単にしていないだけ。それは無能力ゆえなのか?とか、そんなことも考えない。わからないから。

猫がみんなに愛される。みんなに挨拶される。挨拶性としての猫。私は具体的なものを見てしまうとなんだか抽象的なことを書いてしまう。これは病?癖?偏り?なんでもいい。それをなんとか共同的にするのだ。いや、表現しようとするならば私も、未来の私も結局、普通の人間に過ぎないのだから私はそこで「あなたにもわかるようにする」という責務があるのだ。しかし、私にも神秘主義的なところがあって、ある程度杜撰なものでも私はわかってしまうのだ。ノスタルジックだからわかってしまうのだ。

もう書き続けることはない。もっと適当に書けるようになりたい。

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