1-1-2 思想の三つの段階を考察するための下準備としての二重性
この文章は前の文章を読まなければあまりよくわかりません。
時間のある方はぜひ前のものも読んでみてください。
https://note.com/0010312310/n/n710e2c37cfac
思想の純度について話した時に二重性、もしくは相関関係(コレラチオン)、またはアナロジー、アレゴリーなどたくさんの類似概念を提示しましたが、その分別があまり上手くいっていないと、それらを混同し、概念同士の関係が分からなくなるだけでなく、それ以上に概念が不明確になってしまいます。
補講のような気分でこの文章は書かれています。この定義がわからなければ思想の段階について書けないこともそうですし、少し疲れていることもそうです。
ここでは、類義的な方法をとるので、いわゆる斜線の哲学のような方法を取りましょう。
しかし、これも骨が折れる方法なので、また詳しく説明はするとして、ここでは感覚で感じるくらいにしていただけると幸いです。
では、まずは、二重性とコレラチオンについて話しましょう。
コレラチオンというのはフッサールが提唱した術語であり、相関関係と訳されることの多い術語です。この述語の術語たる所以に僕はあまり詳しくないのですが、誤解を招くのを承知で定義するとすれば、それは二つの相関関係が一つの相関関係を作っているような相関関係の全体のことです。
AとBという違うレベルがあり、その関係に似たCとDという違うレベルがある。
そのとき、AとCの相関、BとDの相関という二つの相関を、一つの相関の上に乗せることによって、それぞれがそれぞれと関わる仕方によって、それぞれの関係とそれぞれを定義することを目指しているのだと思います。
フッサールでいえばコレラチオンは様々なところで見出されています。
フッサールは数学と心理学のような哲学を創始したと僕は考えているので、この二つのものの考え方に普遍するような思考形式なのだと思います。
木田元さんが述べていたことですが、
フッサールとカントは論文が書きやすい。彼らにはレトリークがない。
というのは、おそらくその辺りのことを言っているのだと思います。
レトリークというのは、数学からはかけ離れた翼のようなものですから、それがフッサールの哲学、特に前期哲学には感じられないのです。
話が逸れてしまいましたが、コレラチオンというのは、二つの相関関係を一つの相関関係へと変換することであり、その変換の方法のことである。というのがすっきりとした定義だと思います。
これもまた、ドゥルーズ的な二項対立の超え方であるように感じます。
彼は、二項対立を一つの地平や直線の上に並べることを理論的に詩的に完成していると僕は思っています。
彼は多様な二項対立をその内部から解体するという意味ではデリダ的な方法をとっていますが、デリダのようにどちらかに特別な権力を認めているわけではなく、その権力構造はあまり感じずにそれらを一つに並べることによって強度という概念を生み出したように思われます。
またまた、話がずれてしまいました。
二重性というのは、僕の中では、境界の互換的な内と外の性質のことを指しています。
その意味では、コレラチオンにはたくさんの二重性が定義できます。
ここではすべてをあげませんが、一つ挙げるとすると、一つの連関関係に収斂された関係のうちには必ず二つの何かが存在します。
その不穏な空気を二つに境界として、明確にではないとしても分けているのが二重星です。それは対義的になることもあれば、類義的になることもあります。
その意味では、接しているという意味での二重性と語ることもできるかもしれません。
しかし、そのように語ると接しているという状態のみを定義しているような気がするので、このように回りくどいながらも二重性と定義しているのです。
二重性はコレラチオンのあらゆるところに見出されます。
それはデリダがしたような脱構築をより透明にしたようなものです。そして、ドゥルーズ的な強度の思想のうちに二項対立の権力を濾過した二つというものを見出すための工夫です。
それは現象学的なことで言えば、二項対立の現象学というふうに定義できるかもしれません。
二項対立の現象学を定義したのはおそらくプラトンですが、デリダやハイデガーが構想した二項対立の破壊を最も内部的に達成するための概念でもあります。
僕の哲学は自分なりに「空洞の哲学」と考えていますが、そのためには空洞と空洞ではない部分を定義しなければなりません。すべてが哲学になることほど哲学の生命を削ぐことはありません。(哲学がすべてのことを柔軟に活用していくことは大いに推奨するべきだと思いますが)。
しかし、従来のような二分法、デリダが脱構築しようとし、ハイデガーが批判をし、フーコーが権力と看破し、ヘーゲルが弁証法によって活気づけようとしたような二分法の定義では、あまりにもわざとらしすぎるのです。
空洞は薄い膜によって空洞となってほしい。
という僕の哲学的モチーフがその二重性という膜の概念を定義させているのです。
自分の哲学について脱線してしまいました。
ここでの話は終わりにしましょう。
明日は、アナロジーとアレゴリーをコレラチオンによって二重性を浮き彫りにしながら提示しましょう。
不思議なことにそうすることが、思想の段階とのコレラチオンを描くのです。