主にフェミニスト現象学に微笑む

みんなバラバラだ。ただ、その「バラバラ」ですら、私たちは「バラバラではない」こと、すなわち「同じである」ことから考えなくてはならない。いや、むしろ「バラバラ」は「同じではない」と「同じである」の押し合いへし合いのことなのであり、その押し合いへし合いが安定していることなのである。

バギャリリ、バギャリリ、この文章はそういう、そういう質感、触感で書かれている。携帯電話のフリック入力、しかしそれはバギャリリしているのだ。いつもはこんな感じではないが、いまはこんな感じなのである。

誘惑しなくてはならない。しかし、誘惑には型が必要である。そういうような困難を感じる。私はフェミニズムに。ただの正しさでは………

勝手に「似ている」と思うこと。この「勝手」さについて考えてみることは必要だと思う。福尾匠の言っているように。

もっと適当な共感に基づいて考えよう。私はそういうふうに思うのである。考えること自体が快楽であるような、そんな適当さを立ち上げてみたいのである。

ただ、これは机上の空論である。というか、机上の空論ですらない。いや、机上の空論であるかすらよくわからない。

儀式を無性化すること、それは可能なのだろうか。いや、なんというか、儀式を遂行することにとって性は本質的なものなのか、私にはよくわからないのである。もちろん、それが不可能だとしても無限遠点にそれを置くことはできる。ただ、私はそれが実践的なものには見えないのである。その実践が何かを変えたのだとしても、それが本質的なものであるかはまた別の話なのである。

色々と疑問が湧いてくる。その最も根本的なものは「つながらないことによるつながり」のようなものがよく見えてこないということである。「生きづらさ」の共鳴によって「つながらないことによるつながり」が可能なのだろうか。どうも私にはそのようには思えない。思うふりはできても真面目には思えない。この真面目でなさについて考える必要があるのである。

さて、先日「フェミニズムに微笑む」https://note.com/0010312310/n/n76d88571eea7?sub_rt=share_pwで書いたように『フェミニスト現象学入門』の気になる章を読んでみよう。ちなみにここまでは8章の「なぜ今、フェミニスト現象学なのか?」を読んで書いてきた。

「本書で明らかにしたいのは、マイノリティ当事者は自分がどのような「生きづらさ」があるのか具体的に認識できていなくても、他のマイノリティ当事者の「生きづらさ」の内容が自分のものと重なる場合には、それを認識できることである。このことは、マジョリティの社会で苦しむそれぞれのマイノリティ当事者同(/)士の対話を通して、「生きづらさ」に関する客観的な情報や視座が創り出されうること、そして当事者一人一人の中にも、「生きづらさ」で困っている自分を俯瞰できるような客観的な視点をもてる可能性を示唆する。さらに、マイノリティ当事者の知の生成過程に焦点を当てることによって、マジョリティの世界や事象の捉え方を批判的に再考できるようになるだろう。」(『フェミニスト現象学入門』95-96頁)

「要するに、マジョリティによる搾取と個人主義のパラダイムを超えた相互依存の感覚を獲得し、私たち一人一人を正常/異常のカテゴリーに嵌め込まず、お互いの差異を知ることができるようにし、コミュニティとしてつながりの感情をもてるようにすることが重要になる。しかし、バトラーが強調するように、共生社会への新しい方向性を提供する相互依存の理論は欠けており、マイノリティ当事者を分断し、拡散するような理論が主流になっている。だからこそ、パラダイム・シフトを起こすような相互依存の理論を作り出せるフェミニスト現象学が必要になる。」(『フェミニスト現象学入門』99頁)

この二つの箇所が重要だと思った。そもそも核にあるのが「マイノリティ/マジョリティ」の対立なのだから当たり前だと思うがコミュニティ論として読む筋がとりあえず思い浮かんでいる。私には。「フェミニスト現象学」を。上で「フェミニズム」と書いたが、私に見えているのはおそらく「フェミニスト現象学」であり、それでしかない。

他の章を読もう。私がこれまで読んできた章(1章と8章)はそれぞれ理論的な章らしいので。目次を見よう。

興味を持ったのは2章「女の子らしい身振りとは何か?」、3章「妊娠とは、お腹が大きくなることなのだろうか?」、5章「外見を気にしてはいけないのか?」、6章「どこまでがセクシュアル・ハラスメント?」、7章「一人暮らしじゃなければ一人前じゃないのか?」、9章「なぜ自分のセクシュアリティを口に出すのか?」、10章「「性別違和」とは何か?」、11章「男だってつらい?」、13章「障害はどのような経験なのか?」である。多い。逆に興味を持たなかった章も書いておいたほうがよいだろう。4章「なぜ月経を隠さなくてはいけないのだろうか?」、12章「人種は存在するのか?」、14章「年を取ることと、老いることは同じなのか?」である。少ない。とりあえず読む章を決めよう。全部読む余裕は少なくとも今日はないので。今日はとりあえず13章「障害はどのような経験なのか?」を読もう。上の問題意識とも重なるところが多そうである。まあ、それが理由かと言われれば理由の一つでしかないとは思われるのだが。まあ、このように思いたいだけなのかもしれないが。

Aという人をどう捉えているか?と問われてやっと私たちはAにカテゴリーを与える。もちろん、その問いがあらかじめ存在するカテゴリーの想定なしに理解しにくいことはたしかだが、それは「理解しにくい」であり「理解できない」ではない。

こういう、問題をはぐらかしているようにも見える私の振る舞いはどう批判されるのだろうか。その当てがないので私もなんだか暖簾に腕押しという感じである。

「心身にどのような特性があろうと、ある人が「存在している」という時点では、「障害」という差別問題は出てこない。「できるべき」という規範を構築し続ける社会の中で生活をする過程で、「できない」ことが問題になる。」(『フェミニスト現象学入門』157頁)

これはたしかにそうだと思うのだが、「できない」のすべてを「できるべき」の規範によるものであると考えるのは危険な気もする。気がするだけで何が危険なのかはよくわかっていないのだが。問題構築方法の問題。

「相互に作用している」というのはどういうことなのだろうか。相互作用を「A⇔B」と捉えるとすれば、AとBがどう措定されるかが重要な問題であるように思われる。

このことに関しては次の福尾匠からの引用が深い関係を持っているように思われる。

「ポジティブ/ネガティブ」という語において、私はドゥルーズが『差異と反復」で<否定的=ネガティブな>差異と<定立的=ポジティブな>差異を対立させて論じた議論を前提にしている。ネガティブな差異とは論理的、命題的な秩序にあらわれる差異のことであり、ふたつの項のあいだに矛盾、対立、類比、類似といった関係を成り立たせる、「AはXであり、BはXでない」といったかたちで規定される差異である。これがネガティブであるのは、各項の自己同一性が論理的に先行しており、そのうえで「ネガ」として両者の差異が取り出されるからだ。
翻ってドゥルーズは、差異のポジティビティは命題的なものに還元されえない「問題的なもの」に宿る、そしてそれは存在の肯定でも否定でもなく、「非-存在 non-être」であると述べている。彼はこの<非>のありかたを範例的に示すものとして、フランス語における「虚辞のne」の機能を挙げている。「雨が降っているil pleut」の否定文が「雨が降っていないil ne pleut pas」であるように、フランス語の否定文はS ne V pasによって表される。虚辞のneとは「雨が降らないか心配だje crains qu'il "ne" pleuve」というように、neがpasを伴わずに用いられ特殊な機能を担うことを指す。教科書的にはここで雨は降るとも降らないとも言われておらず、雨が降ることへの否定的な心情がneにあらわれているとされる。虚辞のneが示すのは命題的な肯定/否定(A or not A)のレベルの手前にある、雨が降るという問題=出来事との不確定かつ抜き差しならない距離だ。メルヴィルの『代書人バートルビー』の主人公が繰り返す「せずに済めばよいのですが I would prefer not to」も同様に、するかしないかという決定そのものを脱臼させ、周囲の人物たちをいわば「バートルビー問題」へと巻き込んでいく。問題的なものとしての<非-存在>が指し示しているのは、距離としての差異がもつポジティブな=定立的な力であり、植物が異質な諸力のあいだを縫って生長するように、差異こそが生きられるものである。

『非美学』40-41頁

また、この引用にも関係が深い次の引用も重要であると私は思う。

偽なるものの力能と、真なるものの形態。このふたつの概念はどちらも、ある種のトートロジーをなしており、英語で言えば“of the”に対応する前置詞«du≫は、「偽なるもの/真なるもの"という"力能/形態」と同格として取れるとも考えられる。なぜならこれから見ていくように、形態とはつねに真なるものとして振る舞う「真理のモデル」であり、力能はつねに真偽を決定不可能に追い込むものであるからだ。とはいえ、真なるものの形態において偽なるものが一切存在しないのでも、偽なるものの力能において真なるものが存在しないのでもない。前者において偽なるものは、真理のモデルのたんなる影として力能をもたず、後者において真なるものはモデルとして前提されるのではなく、創造されるべきものになる。このことを、形態が優位になるか力能が優位になるかによって真なるものと偽なるものの関係は変化すると言い換えることができるだろう。力点を置くべきは形態と力能の対立であり、これによってふたつの体制に安易に真/偽を割り振ることを避けることができる。

『眼がスクリーンになるとき』(河出文庫)284-285頁

ちなみにこれらの引用が浮かび上がってきたのは『フェミニズム』(岩波現代文庫)において次のように述べられていたからであると考えられる。

「ジェンダーはセックスの"うえに"構築される社会的・文化的な性差である」という定義は十分なものではなく、「社会的・文化的な性差であるジェンダー"によって"セックスという虚構が構築される」と定義しなおさなければならない。しかもこの虚構の構築は、一回だけでは終わらない。たとえば人の一生で言えば、誕生時にそのときだけ、身体が性的にしるしづけられるわけではない。セックスという虚構を「事実」とみなすために、わたしたちは、あたかもジェンダーがその事実の「うえに」構築されたものであるかのように、繰り返し繰り返しジェンダーを演じつづけている。演じること(おこなうこと)によって、事実性を(再)生産するパフォーマティヴィティ(行為遂行性)のメカニズムは、ジェンダー規範のもっとも根幹をなすものである。ゆえにジェンダー規範は、社会的規制として人の外部にあるのではなく、規制を"内面化"している人の<認識>そのものであり、規制を"身体化"している人の<形態>そのものであると言えるだろう。

『フェミニズム』(岩波現代文庫)62-63頁

引用でドゴンドゴンとブロックしてしまっていたら申し訳ないが、こういう感じで私は問題を感じている。フィールしている。そういうことを明らかにすることは重要なことであると思われるのである。

さて、読書に戻ろう。

世間話をするような儀礼性のなかの話。そういう話が私の気になるところなのである。

解釈すること、解釈し尽くすこと、解釈できること、これらは享楽的なこと、言わば快楽である。私たちはそういう快楽、享楽なしには生きてはいけない。そのことを私は重くとっている。明らかに。そして学問もそのような快楽に駆動されているように私には見える。これが投影だとしても私にはそう見える。情熱やら努力やら、そういう概念や物語で粉飾したとしても本質的なことはそういうことだと私は思うのである。というか、わざわざまとめていることを考えるためにはそう考えるしかないと思うのである。私は。この次元を無視しているものは私にとってはつまらない。申し訳ないがつまらない。

ああ、別にこれは「フェミニスト現象学」に限った話ではないし、「フェミニスト現象学」に話していないわけでもない。

そうか。私は学問的なテーブルでしか議論が見えていないのだ。それはまるで詩論的なテーブルでしか作品が見えていないようなものである。もちろん議論にはテーブルが必要だが………

さて、色々しているうちに時間がなくなってきてしまった。今日はここまでにしよう。「生きられた経験」が本当にそれであるためには学問ばかりしていても仕方ない。

この文章の後半、私は「物語・暴力・愉悦」というタイトルの未発表の文章のことを思っていた。今日はその文章を推敲することにしよう。そしてこの文章を出すまでに投稿することに、しよう。

推敲した。一つだけ書きたいことができた。それは次の引用に示されるようなことである。(以下の引用は『眼がスクリーンになるとき』(河出文庫)の文庫版解説として開かれた「批評とリテラリティ」という座談会における福尾匠の発言からの引用である。)

福尾 この本[=『眼がスクリーンになるとき』:引用者]が出たときに黒嵜さんが話してくれた感想が印象深くて、いまでも憶えているんですが、「貧しさについて書かれた本だ」というふうに(/)言ってくれたんです。それはひとことで言うと、「網羅する」ということへの幻想が解体したあとに、批評するとか、もっと広く言うと知識人であるとはどういうことなのかということだと思います。いまでもたとえばシネフィル的な規範に沿って映画を見ることはできるのかもしれないけど、そこにかつてあった「アウラ」みたいなものはなくなっていて、そういう状態から批評を再出発させるにはどうすればいいのかという、僕なりの解答だったんだと思います。

『眼がスクリーンになるとき』(河出文庫)345-346頁

このような状態に対してどうするか。私は「フェミニスト現象学」に、そしてその奥に、手前にある「テーブルについて話をする」こと自体に福尾のようなテーマを見ているのである。というか、そういうテーマを見ないとフィクション性を強く感じ過ぎてしまうのである。

福尾も強く影響を受けている千葉雅也はアメリカでの生活のなかで次のように書いている。

人の生活は、欲望は、ある狭さとの関係で成り立っている。
ある狭さがなければ欲望することは不可能だろう。狭さが欲望の原因だ。この街のアイスコーヒー。あの街のアイスコーヒー。移動とは狭さの喪失である。ゆえに欲望の喪失である。移動のたびに我々は、愛した狭さへの喪の儀式を執り行なう。狭さへの喪。世界のなかで我々は、ある狭さを生きる。おお、狭さよ。

『アメリカ紀行』174頁

私は何が言いたいのか。まだ明確にはわからないが、「生きづらさ」や「生きられた経験」を語るだけで意義深いと私はどうしても思えないのである。そしてそれはいくら実感を層化していったとしても変わらないことだと思うのである。必要なのは「誘惑」だと思うのである。同じく千葉雅也は次のように言っている。

世界が複数化したポスト・トゥルースの状況においては、同じ世界=事実という儀礼へと人々を"誘い込む"ようなふるまいが必要である。何らかの規範のごり押しではない。ある事実へのインビテーションが必要なのだ。それは、社交である。社交とは、異なる事実=世界のあいだですり合わせ、を行い、ひとつの儀礼をつねに未完のものとして、変化可能=可塑的なものとして構成し続けることである。

『意味がない無意味』34頁

ああ、そう言えば、猫の鳴き声とぶりっ子の猫なで声の関係について分析したものを書いていた。そのことを思い出した。なぜか。いや、なぜかはわかるだろう。ただ、あれはすごく内容の濃い分析だった覚えがあるので今日は推敲したくない。そろそろ生活の時間だ。まあ、私は生活感がなさすぎるのかもしれない。

終わりがずっと訪れない、というかこのまま過剰に続いてしまう気がするので次の引用で締めよう。

私たちは、日常的に、さまざまな物語を集めて生きているのだが、いつもそれがうまくいくとは限らない。物語は生きている。それは私たちの手をすりぬけ、私たちを裏切り、私たちを乗っ取り、私たちを望まない方向につくりかえる。それは生きているのだ。
ある小さなマンションに暮らす家族のことで、そこの自治会の方から個人的に話を聞いたことがある。
若い夫は現役のヤクザで、家族にひどい暴力をふるっていた。妻は出会い系サイトなどを使って個人的に売春をしていて、二人のまだ小さな息子を隣室に追いやって、自宅で客を取ったりしていた。
息子たちは妻の連れ子で、再婚相手である男性から壮絶な虐待を受けていた。詳細は省くが、子どもたちへの暴力がきっかけで男性は逮捕され、刑務所に行った。そして、妻は、子どもたちを置いてどこかへ消えた。残された子どもたちは施設へ預けられた。
一家がバラバラになっていくちょうどそのころ、マンションのその部屋の、すぐ下に住む別の住民から自治会に苦情が寄せられた。
どうもその家族が暮らしていた部屋は、ゴミ屋敷になっていたらしい。大量の害虫が発生し、階下の部屋の天井には真っ黒なシミが浮き出し、強烈な悪臭があたりに漂った。
私はその自治会の方から、ここまでの話を聞いていた。
何ヵ月か経ってから、ひさしぶりにその自治会の方に会ったとき、その家族が暮らしていた部屋の、その後の話を聞いた。
父親が収監され、母親が蒸発し、子どもたちが施設に預けられ、無人となったその部屋だが、その後も悪臭や害虫の苦情が何度もくり返され、マンションの管理会社の立ち会いのもとで、自治会の方が合鍵でその部屋の扉を開いた。。
そこで見たのは、家具も何もない、からっぽの、きれいな部屋だったという。
単に、階下の住民が何かを勘違いしただけなのだろう。真相も何もはっきりしない、特にドラマチックなこともない、ただこれだけの話だが、それにしても、自分では見てない、話に聞いただけの「からっぽの部屋」のイメージが、妙にいつまでも印象に残っている。
途中まで私は、よくある話といえばよくある話だが、それにしても、と暗澹たる思いでこの話を聞いていた。暴力、貧困、虐待、売春、そしてゴミ屋敷。一連の「家族解体」の物語を、私だけでなく、それを聞いたものはみな、そういう物語として受けとっていた。
ほんとうにたいしたことのない、たったこれだけの話なのだが、それでもその最後の話を聞いたときの、急においてけぼりにされたような感覚は、いつまでも消えない。
たったこれだけの物語に、あまり過剰に「無意味」という意味を読み込んではいけないのだろうが、この話の全体が、ピントが合わず、いくらがんばってもはっきりした像を結ばない。

『断片的なものの社会学』59-61頁

「からっぽの部屋」に「誘い込む」。私たちの世間。もう切れ切れにしか話せなくなってしまった。上に書いた分析、猫とぶりっ子の分析を推敲する。タイトルはたしか「猫なで声と人間の悲哀」であった。

さて、困ったことに意外と時間があり、推敲が意外とすぐ終わった。明日は「物語・暴力・愉悦」を投稿して、明後日は「猫なで声と人間の悲哀と解放」を投稿しよう。そしてその次の日にこの文章、「主にフェミニスト現象学に微笑む」(タイトルはいまつけた。投稿されたバージョンを読んでいる人は始めに読んでいると思うが。)を投稿しよう。この三つの文章はどれも極めて「誘惑」的である。ただ、それは、それゆえにかは確定できないが曖昧である。そのことはこれからの課題だろう。

「物語・暴力・愉悦」https://note.com/0010312310/n/n7d55e44242e1?sub_rt=share_pw
「猫なで声と人間の悲哀と解放」https://note.com/0010312310/n/n3dbd7373e977?sub_rt=share_pw

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