『ひとごと』を読みはじめた2
夜ご飯を食べてから「スパムとミームの対話篇」「<たんに見る>ことがなぜ難しいのか──『眼がスクリーンになるとき』について」「まえがき」を読んだ。(「まえがき」は二回目。)福尾匠の『ひとごと』(河出書房新社)という本の話である。今回はメモを取らず、というかそもそも携帯を持たず、なにも書けないようにしてただ読んだ。いまからお風呂に入ってくる。思い出すか思い出さないか、それはわからないが、とりあえずこれらの文章について考えるという気概は持ってお風呂に入ろうと思う。
「スモーキング・エリア#1 煙草とおなじくらい分煙が好き」を読みはじめてしまった。あぶない。お風呂に入ろう。
入った。特に何にも思いつかなかった。唯一と言っていいほど思いついたのは「批評と言わずエッセイと言わず、本書の文章が書くことを試みているのは、作品未満のものに取り囲まれることの「貧しさ」のただなかにあって、何かが<作品として現れてくる>その瞬間を捕まえることである。'批評とは、仮にそれがすでに作品として社会で了解されているものであっても、自分が出会ったものを新たなしかたで<作品にする>行為'である。」(『ひとごと』13頁)という定義において「仮にそれがすでに作品として社会で了解されているものであっても」という限定は必要だったのかということである。「作品未満のものに取り囲まれることの「貧しさ」のただなかにあって、何かが<作品として現れてくる>その瞬間を捕まえる」ことの喫緊性は「廣瀬純氏による拙著『眼がスクリーンになるとき』書評について」を読んだときになんとなく実感されたが「仮にそれがすでに作品として社会で了解されているものであっても」に関してはそのような実感はまだない。しかし定義的に必要不可欠であるから福尾はここに入れたのだと思うと謎が一つできて、それがエンジンに変わったりガソリンになったりする可能性を感じることができる。そんなふうにお風呂では思った。
ちなみにこれを書く前に『ひとごと』のなかで一度読んでおきたいものをある程度読んでいる。それについては以下。
とりあえず「スモーキング・エリア#1 煙草とおなじくらい分煙が好き」から読む。
読んだ。正直なことを言うと、私は千葉雅也の「批評」のほうが好きだ。いや、千葉のものが「批評」なのか私にはわからないが、この本と『意味がない無意味』は似ていると雑に考えるとすれば、もっと雑に同じだということにすれば、いまのところ私は千葉雅也のほうが好みだ。なんというか、とりあえず描き出す、そんな快楽が福尾にはない。もちろんそれは彼の哲学的なスタンスなのだと思う。スタンスの哲学的な帰結なのだと思う。ただ、それは私には合わない。いまのところはそう思う。こういったとき通読癖、通読規範はありがたい逃げ道にもなる。「いまのところは」と言い続けられる。さて、次はなにを読もうか。
長すぎると読みきれないので「ひとんちに日記を送る」を読もう。
読んだ。「メタテクスト/プレーンテクスト」「イベントフルネス/イベントレスネス」という二つの対比を論じることはとりあえずやめておこう。間に合わない。
なんとなくこれはわかる。ただ、私がわかるのは「『ある』への信頼は、それを書き続けることでしか維持できない。」のところまでであり、それ以降はわからない。私は「本」を作ったことがないし作る気もない。作ることによって得られるものよりも作ることによって失うもののほうが多いのではないか、私はそういうふうにびびっている。まあ、そもそも作る機会すらないのだからなにを心配なさっているのかしら、なのであるが。ただ、なんとなくここに福尾との距離感の測れなさがあるような気がする。私の。
私は「作品」に触発されたことがあまりないのかもしれない。「作品未満」を「作品」に押し上げたことがあまりないのかもしれない。仮に「触発」が「押し上げた」ことへの共感性に基づくとするならば、それを私が感じることはあるのだろうか。
いや、「触発されたことがない」というよりも「触発をひとまとまりのものにしたことがない」に近いかもしれない。ただ、それは「押し上げる」というよりも「まとめる」である。このことを踏まえると「作品未満」というのは「まとめられていない作品」ということになるのだろうか。それだと「作品未満」と「作品」が予定調和すぎる?
まあ、私が想定している「作品」が大抵詩で、大抵俳句なのも影響があるのかもしれない。福尾が想定しているように見える「物」みたいな「作品」は「作品未満」でありやすいのかもしれない。態勢を整えなきゃ「作品」がそれにならない、みたいなことがより強い強度であるのかもしれない。「物」だと。まあ、別にないと言われればないかもしれないが。
とりあえずまだ全体像はよくわからない。
だからまだ「読みはじめた」なのである。