表現力とは何か

私は一応教育者の卵で、試験が近くに控えているため、「あなたはどのような児童を育てたいですか」と聞かれることが多い。
面接練習だけでなく、個人的に考えることも非常に多い。
教育に携わるとき、特に小学校の教育に携わるとき、児童に育ってほしい力を明確にすることは重要であると思われる。
これは直感で、別に理由などないのだが、これまで見てきて良い先生だと思った先生は皆、育てたい力、というのが指導からありありと感じられる先生であったと思う。
だから私はそれを明確にしたいのである。

さて、私が児童に育ってほしい力であるが、これを考える前に、現代人が不足しがちな要素について考えたい。
児童はやがて現代人になる。だから、現代人の不足について考えることは児童に育てたい、また、育てなくてはならない力を考えることに直結するのである。
私が不足していると考えているのは、「表現力」である。
それは、表現する力と表現される力を掛け合わせた力であり、どちらかに偏らない平衡感覚もそのうちに内包している。
私がこのように思うのは、最近の「論破」の話であったり、「対話」の話であったり、その他多くのところで、「表現力」が不足していると感じるからである。
「決めつけ」や「独断」はどの時代にも横行していると思われるが、そこに批判精神、主に自省の精神が欠けていると私には思われるのである。
私たちは討論を好むくせに議論を好まない。
それはどのようなところでも散見される。
この状況は良くない。私はそう思う。
なぜなら、それによって引き出される結論は「他人の話は自分の勝てる範囲で聞くべきである」という態度だからである。
その態度では、コミュニケーションは崩壊する。
コミュニケーションにおいて重要なのは、言ったことではなく言いたいことである。
この認識は別に自己弁護のために使われるものではなく、「相手の話を聞く」という態度においてとても重要である。
ここに倫理の源泉や哲学の源泉が存在している。
「相手の話を聞く」というのは、相手の言ったことではなく言いたいことを見つめ、それに対して常に不足してしまう言葉や表現で辿々しく応えることなのである。
だから、別の言い方をすれば、答えるのではなく応えるのが対話なのであり、表現なのである。
また、私が表現されるという表現力をここに入れているのは、表現される力がなければそもそも表現力は向上し得ないからである。自分のした表現の良さや改善点を見つめられない人に表現などできない。
それが意識的にできようと無意識的にできようと私にはどちらでもいいし、大抵無意識にしている人はどうしてかわからない不足や物足りなさから「独断」を選択するようになる。
初めから不安や恐さでそれを選択しなかった人とは違い、その自責の念がその人を苦しめるのであるから、一度でも「表現」に手を染めてしまった人は、その力を伸ばしていくしかないのである。

と、児童の話に戻るが、児童も昨今のコロナの情勢やインターネットの普及によって、「表現される」ということが当たり前になり、「表現する」ということが非日常になってきているように思う。
別に無理にそれをする必要はないのだが、「表現する」という発信者の視点なしの「表現される」においては自己の解釈を振り返る理由がなくなってしまうように思える。
なぜなら、彼らは自分で「表現する」ことをしたことがないのだから、「本当はこういうことを表現したいのにな」ということが存在することを理解していないからである。
「表現不足」を自らの力不足として引き受けることから「表現力」の育成は始まる。
それを私は児童に活動を通して知ってもらい、自分の「表現力」を磨く道を見てみてほしいのである。
私はまだあまり学校現場に立ったことがなく、ただ机上の空論を並べているだけかもしれない。
しかし、理想を持っていない教員に育てられる児童の気持ちを考えると、その理想が間違っているかもしれないという疑念を持ちながら、それでも「こう育ってほしい」という信念がなければならないのではないか、と思う。
もちろんこれは児童を蔑ろにして自分の信念だけを通すということではなく、自分の信念を晒して、それがどのように変形していくのか、表現不足に陥っていくのか、それを私は知りたいのである。
自分がここまで生きてきて、最も大事だと信じるのは、「表現不足を認めながらも表現力を磨くこと」である。
このような力は副次的に藝術を生み出し、藝術を鑑賞し、藝術に救われ、そして藝術を愛することに繋がるのではないだろうか。
だから
「あなたはどのような児童を育てたいですか」
と聞かれれば、
「表現する力と表現される力を自分自身で育てられるような児童です」
と難しく答えてしまうかもしれない。
これは私のコミュニケーションの問題なのである。

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