正木ゆう子から鑑賞を学ぶ9
「正木ゆう子から鑑賞を学ぶ」の第九回である。ここですることは正木ゆう子から鑑賞のなんたるかを学ぶということである。具体的に言えば、『現代秀句 新・増補版』を読んで、句の引用→私の感想→正木の鑑賞→感想の変容という形で学びを示すということである。次は第十回なので番外編を書こうと思う。今回はいままで通りに事を進めよう。
銀河系のとある酒場のヒヤシンス
「の」が二回続き、さらにはそれは大きなところから小さなところへ、場所から物へ、ズームしていく役割を担っている。そして、そのことを強調するなら「銀河系」と「ヒヤシンス」もまたそのリズムのなかにあると考えることができる。そのことによって俳句のリズム、五七五のリズムの有限性と無限性を感じることができるのだ。一読して、そして感想を書く段になったとき、私は『の』という絵本のことを思い出した。その絵本は最後マトリョーシカみたいになっていた。無限マトリョーシカみたいになっていた。たぶん。この俳句はそうもなりそうもないところがポイントである。私はそう思った。
あと、これは「感想」からは飛び出てしまうが、小さなものから大きなものを想うこと、それが自然(変な注釈だが、ここでの「自然」はたとえば「人工(物)」と対比される「自然」ではなく、「〜するのが自然である」と使われるような「自然」である)だと私は思う。だから、この句はその自然さを不自然さを強調することで示したものであると考えることもできるかもしれない。まあこれは、「感想」にしては構造的すぎるかもしれないが。と言っても、上の「感想」もすでにそうであるかもしれない。その意味で、逆流する感じが「ヒヤシンス」に底知れぬ奥深さ、宇宙性を与えていると言えるかもしれない。ヒヤシンス自体が持つ、幽涼(こんな概念があるのかは知らない)な感じが有限性として輝いている、と見る人は極めて秀でた句であると感じられるかもしれない。
普段、こんなに長く書くことはないので普段通りというわけにはいかなかった。時間がなさそうなので、正木の鑑賞を読んで感想の変容を書く時間はなさそうなのでこれはこれでストップしておこう。
いや、鑑賞を読むことだけしておこう。引用するところまで決められたら御の字だ。
芸がないが全部引用しよう。そろそろ「引用が従で自分の主張が主」と言われる、引用の主従の掟を守っていないじゃないか、と叱られそうな気もするが仕方ない。学びは潤沢なものをそれ自体として、全体として受容する、そしてそれが部分に過ぎないと思い続けることによって成り立つものなのだから。この比喩自体、ここにある果汁的な、柑橘的な気分は内田樹がレヴィナスについて書いた何かのどこかにあったはずだが、それを探している暇はない。し、そもそもメモしているかすらわからない。
この酒場はどこにあるのか。二種類の解釈が可能だろう。地球以外の銀河系のどこか。もうひとつは地球のどこか。
映画「銀河鉄道999」では、宇宙ステーションにあるうらぶれた酒場が出てきたが、そんな場所を思い浮かべてもよい。あの一種作りものめいたヒヤシンスなら、土のない宇宙でも咲かせることができそうだ。作者には透明な瓶で水栽培されるヒヤシンスのイメージがあったのかもしれない。ヒヤシンスの名前の由来が、アポロンに愛された若者ヒュアキントスであるなら、宇宙的なスケールもうなずける。
そんなふうに読まれることを十分に予想しながら、しかし作者の意図は、「銀河系のとある酒場」を地球上のごく普通の酒場とする解釈の方を望んでいるようにも思われる。たった今私たちがいるところの<此処>も、そういわれれば確かに銀河系のとある場所にちがいない。そう思ったとたんに、視野が一挙に大きく広がって、まるでひしめくような星々に囲まれてバーの止まり木にいるような愉快な気がしてくる。
掲句を収める句集『微光』は平成四年の刊行で、閒石はこの年に八十九歳で没した。写真で見る閒石はいかにもこんなバーが似合いそうな白皙の紳士である。
文字を消し一段落が動きけり
なんか俳句、みたいなのを書いちゃいました。では、また後で書きます。
戻りました。では書いていきましょう。
なんというか、差を感じるのは、そしてそれもできたほうがいいと思われるのは「二種類の解釈が可能だろう」と言ったあと、その二種類の解釈を質感をともなって感じることである。具体的に言えば、「あの一種作りものめいたヒヤシンスなら、土のない宇宙でも咲かせることができそうだ。」とか「たった今私たちがいるところの<此処>も、そういわれれば確かに銀河系のとある場所にちがいない。そう思ったとたんに、視野が一挙に大きく広がって、まるでひしめくような星々に囲まれてバーの止まり木にいるような愉快な気がしてくる。」とか、そういう、そういうイメージの膨らませ方が私には足りないのだ。より具体的に言えば、「ヒヤシンス」に「一種作りものめいた」という形容を、「バー」に「止まり木」という形容を加える、その踏み込みが私には足りないのだ。そしてそれはおそらく、「ヒヤシンス」についての知識や「閒石」についての知識のなさに由来するものなのである。
「感想」は特に変容しなかった。ただ、その深さは変容したように思われる。まあ、それを変容と言うならそれはそうであり、それこそが重要なのかもしれない。
まあ、言いたいことはたくさんあるが、今日のところはこれで終わりにしよう。最後に、別に誰に言っているわけでもない気がするが、私は私の元々の「感想」、及び「感想」ではないと言われたもの、「感想」から飛び出してしまうと言われたものを変容させたいわけではない。上でも言ったように「それもできたほうがいいもの」として正木の鑑賞術を私は学びたいのである。