改作と鑑賞11

久しぶりに「改作と鑑賞」しようかな。眠たいし。『新歳時記』の冬欲しいなあ。買っておくか。最近お金を使いすぎている。普通に。

注文してしまった。私はそろそろ本格的に俳人になるのかもしれない。まあ、それはいいが、「改作と鑑賞」の説明をするのを忘れていた。簡単に言えば「改作と鑑賞」というのは昔の自分が作った(とされる)俳句(らしきもの)を読んで、改作するか鑑賞するか、そのどちらかをするということである。『新歳時記』の春で季語を勉強していると昔の自分の粗さが目立つようで恥ずかしく、ここから多く出るだろう冬もさっき買ったのだから当然恥ずかしいことになるだろう。しかし、私は「改作と鑑賞」が好きなのだから仕方ない。またいつかよりよくすればいい。そういうおおらかさが好きなのかもしれない。

1/25

日向ぼこ白の天球溶けにけり

白い空、それが太陽を中心に開いていって、青い空がうっすら、しかし確実に見えてくる。その流れを「日向ぼこ」でおおらかに、しかしそれを意識するくらいは冴えた意識で見つめている。そんなことを感じた。「春老いて天涯孤独の日向あり」という句と読み合わせてみると面白いと思った。話はズレるが、この句の「春老いて」は季節の巡りが逆になっているようなおかしみがあるような気がする。それとも「天涯孤独」にはそもそも季節という反復がないのだろうか。そんなことも考えた。他のことで言えば、チョコレートの上から温かい何か(ミルクとか?)をかけてチョコレートを溶かすパフォーマンス的な料理のことも思い浮かべた。今日はこういう雑駁な感想を書く気分なのかもしれない。

春雨にカンディンスキーのバス走る

「カンディンスキーのバス」が難しいですね。カンディンスキーは画家です。どの絵のことを言っているんでしょうね。「春雨に」と言っているからには「いくつかの円」とかですかね。ただ、私はたぶん、「コンポジションⅧ」とかをイメージしていたと思います。なので

→春驟雨カンディンスキーのバス光る

が、やりすぎですか?そうかもしれないですね。問題の「カンディンスキーのバス」というのはおそらくバスの窓の雨粒のピュッピュッとした感じの裂け、みたいなものがカンディンスキーの「コンポジションⅧ」的なんだと思います。いや、それだと「光る」よりも「走る」の方がいいですね。線的なカンディンスキーと円的なカンディンスキーが「走る」と「光る」で象徴されるのは面白いですね。一応

→春驟雨カンディンスキーのバス走る

も置いておきましょう。

冬靄や宇宙の下に入りにけり

これも改作されたものです。(実はカンディンスキーの句もそうです。)ただ、これは(カンディンスキーの句と同様に)改作前と後とで比較せずに考えてみましょう。

→冬靄や宇宙は遥か遠くなり

こっちのほうがいいですかね。

→冬靄の宇宙の下に広がれり

もいいですね。「入る」というのが面白みだったと思いますけど、なんというか、「冬靄」はそんなに動きのあるものである気がしないのでこんな感じがいいと思います。発想は面白いんですけどね。

光群や春の海から皆来たる

うーん、

→光群の春の海より皆来る

だと、だめなんですね、そうですね。「光群の春の海」でひとまとまりなのか、それとも「光群」でひとまとまりなのかがよくわからないですから。まあただ、それが揺れてもいい場合もあって、「春の日」みたいに一日なのか、太陽なのか、そのどちらかを強調するにしても二つは響きあうみたいな感じだと考えてもいいかもしれません。あと、これは本人なんで私は知っちゃってるんですけど、「光群」ってなんなのか、って問題がありますね。少し後にそれを明らかにしつつここで言われていることを保とうとしたことがあるのでそこで「改作と鑑賞」をすることにしましょう。たぶんこの日中にはしていません。すみません。なのでそれが来るのを待つか、みなさんで考えるかしてください。

極小の玉虫集い昏き部屋

これは「極小の玉虫集まり昏き部屋」を改作したものです。ただ、改作前の方が良かった気もします。というのも、「集い」だとまるで「(昏き)部屋」に集まりたかったみたいになりますから。

→極小の玉蟲群れり昏き部屋

これがいいですかね。集まってきている感は欲しくなくて、自然に集まっているか、集まっているのを発見するか、そのどちらかがいいです。私は。だからこれか、

→極小の玉蟲むわり昏き部屋

でもいいですね。「虫」を「蟲」にするだけで集まっている感じが出ると思いましたけど、それはレベルが高いというか、不親切すぎますね。

→極小の玉虫壁に重なれり

でもいいですけど、ここから「昏き部屋」を思い浮かべるのは正直困難だと思います。これはなんというか、改作しすぎですね。まあ、好きなんで記録しておきますけど。

薫風や緑幼児撫でにけり

うーん、ごちゃごちゃしていますね。「緑幼児」が「緑幼児」というひと単語なのか、それとも「緑/幼児」なのかは問題ですけど、それよりもごちゃごちゃしていることが問題だと思います。

うーん、改作はまだ難しいですね。ちなみにこの「緑幼児」は「光食む緑幼児キュビズムの樹」という句が初出だと思います。これはもっとごちゃごちゃしているように見えるかもしれませんが、私はむしろこっちは同じことを三回言っているだけだと思うので一貫しているとは思います。ごちゃごちゃしていないとは思いませんが。

この日はこれで終わりです。少ないですね。もう少ししてみたい気持ちもありますが、夜ご飯を作らなくてはなりません。とりあえずこれくらいにしましょう。やっぱり実際に見たり感じたりしたものは改作しやすいですね。まあ、実際に見たり感じたりすること自体がここで生み出されているという点ではどれも同じ、ある程度まで来ればどれも同じなのですが。

「改作と鑑賞」は推敲及び修正をしないことにしているので誤字があればいい感じにしておいてください。これいつも最後に書いているけど、最初に書いたほうがいいかもしれない。

いいなと思ったら応援しよう!