『志賀直哉随筆集』の感想

『志賀直哉随筆集』のいくつかを読んだ。その感想を書こうと思う。

志賀は文学をほとんど読まない私もかすかに読んだことのある作家である。読んだ記憶が明確にあるのは「城の崎にて」(今回は作品名を『』ではなく「」で囲もうと思う。)のみであり、他のもので明確に読んだことがあると言えるのは「小僧の神様」のみである。もちろん私はほんとうに文学を読まないからこれでも読んでいるほうではある。

私がこの随筆集を読んだのにはかすかにではあれ理由がある。私は今日、大学時代の友達とお昼ご飯を食べ、次いでおしゃれなかき氷を食べて、大きな書店に行った。三人で行った。

一人はまったく本を読まない、しかし、漫画とアニメ、音楽にはめっぽう詳しい人である。もう一人は本をかなり読む。しかし、私とは本の好みが異なり、私が「哲学書のみが軽く読み始められる。」などと言ったのにすぐさま「文学なら軽く読み始められる。」と言い、私はそのラリーにひどく清冽なリズムを感じた。その二人と、いや実質的には私たち三人はバラバラに本屋にいて、そろそろ解散しようかというとき、我々は、いや私は、岩波文庫の棚の前に立った。私としては良き俳人の句集などあれば買おうという心持ちでそこに居たのだが、私の目には『志賀直哉随筆集』が映り、私はそれを手に取った。それがなにゆえなのかはわからないが、それを棚に返す気にもなれず、私はそれを買った。友人の一人はブックカバーを買い、もう一人は私の「あの、あれだよ、あれが読みたいんだよ。ごだいくんが出てくる、『うる星やつら』の人のラブストーリー。」という問いに「『めぞん一刻』?」と答えてくれた。その人は私に聞いた。「どうして読みたいの?」と。私は答えた。「愛が知りたいからだよ。」と。私はこのようにふざけていることの多い人間だ。それは適当だからということもあるがそれ以上に単純な人間だからである。ちなみにその人は信じられないくらいイントロクイズが強い。強すぎて遠慮したことすらあるというところにその人特有の生活や形態があることが直感された。

そんなこんなで『志賀直哉随筆集』を購入した私は彼女たちと別れ、一人で電車に乗って帰った。パンの袋のような袋からこの本を取り出し、読んでいた。と言っても帰りたい駅は割とすぐであり、私は短く、なぜか気を引いた「リズム」という短編を読んだ。そこに私と同じようなものを感じた。目の前の外国人の子供がやけに巻き舌の英語を話していた。トレインをトゥレイィンと言うような、それを見て私はなぜか外国語ができるようになる予感がした。

帰りたい駅に着いて私はこの本を読みたくなっていた。共感からそう思ったと私は思わないがもしかするとそうなのかもしれない。私はスターバックスに入り、お腹が空いていたのでドーナツも買って、抹茶ティーラテを飲んだ。

すぐに飲み終えてしまった。しかし、私はそれぞれの章(?)で一つは読もうと思って読んだ。結局15くらいの随筆を読んだ。

私はその途中、次のようなことを書いた。

リアリズムを掴むというのは強調することを覚えるということであり、その強調をそれとして理解しうる心性を育てるということである。特に重要なのは後者である。なぜなら、前者は言葉にすること自体がそもそも持っている性質であるからである。だからこそリアリズムはイズムなのである。

これはシンプルな評である。それに真に迫った評である。私にはそのように思われる。解説で高橋が書いているようなところを私はこのように解した。そこでは次のように書かれていた。

ここにあるのは、リアリズムが高まれば幻想性は小となるという自然主義的な関係ではない。リアリズムが高まるにつれて、かえって幻想性も増大するという独自な心身的な状態が志賀直哉の内部に存在していたのである。それが現実と非現実(又は反現実)の接近、混淆となってあらわれたわけで、このことはこの解説のはじめに言及した小説と随筆の境界の融解という問題とも、位相こそ異なってはいるものの、遠く響きあっているだろう。

『志賀直哉随筆集』365頁

この「独自な心身的な状態」というものは私たちがリアルの周りにヴァーチャルを想うことによって可能になることである。もちろん、リアルとヴァーチャルの区別を支える記述はいくつかある。例えば、冒頭の随筆「イヅク川」では「夢はさめた。さめてもこの夢から受けた美しい感じが頭に漾っていて、かなり明かにその景色を想い浮べる事が出来た。自分は静かにそれを繰り返して見た。そして、イツク川、イツク烏という名を想った時に、川といったのが池で、烏といったのが白い鳥であった事を考えて興味を感じた。イヅクは何処の"なまり"で、それも面白く思った。」(『志賀直哉随筆集』12頁)と書かれている。そこまでの記述が「夢」であり、そこで気づかれたずれ(「川といったのが池で、烏といったのが白い鳥であった事」)がこの「夢はさめた」の区別を支えている。しかし、それがもう一度捻られて、「ああ、これは現実を比喩したものなのだ。」と感じられなければここで言われている「現実と非現実(又は反現実)の接近、混淆」など到底ありえないだろう。その意味で私たちは志賀によってリアリズムを教えてもらっているのである。私が書いたのはそういうことであると私には思われる。

ちなみに私がこのリアリズムの洞察に至ったのには野家の次のような比喩がある。

自分のこれまでの生涯を振り返ってみても、子供の頃になればなるほど、記憶に残っているのはわずかのことにすぎず、忘却された事柄の方がはるかに多いことに気づくことでしょう。その意味では、記憶の地表に「忘却の穴」があいているのではなく、「忘却の海」の所々に記憶のブイが浮かんでいるといった比喩の方が適切かもしれません。これは体験的過去のみならず、歴史的過去についても当てはまることです。さもなければ人類の歴史が一冊の本に収まるはずがありません。われわれは三内丸山遺跡に住んでいた縄文人の顔や名前すら知らないのです。忘却の海に浮かんだ記憶のブイを手がかりに、海底に沈んだ歴史的事実を探索し、史料の断片をつなぎ合わせて一つの「物語り」を構成して報告すること、それこそが歴史家の作業にほかなりません。むろん、歴史家といえども海底に潜って「過去自体」を見ることはできません。彼/彼女にできるのは、海面に漂う浮遊物や砂浜に打ち上げられた漂流物を手がかりに歴史的過去を「想起」することだけです。たとえ海底に潜ることができたとしても、そこで目にするのは「過去自体」ではなく、タイタニック号さながらに朽ち果て、藻や貝殻がこびりついた残骸、すなわち過去の痕跡だけでしょう。

『過去を哲学する』(岩波現代文庫)144-145頁

ちなみに私が上の洞察を明確に得たのは「猫」という作品のなんでもない文章を読んだところにおいてです。

「そのうち、連れて来ましょう、もし、帰らなかったら、もう一つのを差上げます」Mさんではそういってくれたそうだが、四、五日でも飼ったとなると、自家(うち)の者はやはり、前の猫に帰って来てもらいたいような気持になっていた。

『志賀直哉随筆集』52頁

この心情自体はもちろんなんでもないことである。愛着。単純な話である。しかし私はここにリアリズムを感じたのである。ブイがここに置かれた必然性を感じ、そのリアリティを感じさせられたのである。それが筆力のゆえなのか、それとも私の心情が作り出したものなのか、それは私には到底わからないことである。

ちなみに私が最も心惹かれたのは「朝顔」という作品の次の文章である。

少時すると虻は飛込んだ時とは反対にやや不器用な身振りで芯から脱け出すと、直ぐ次の花に──そして更に次の花に身を逆さにして入り、一ト通り蜜を吸うと、何の未練もなく、何所かへ飛んで行ってしまった。虻にとっては朝顔だけで、私という人間は全く眼中になかったわけである。そういう虻に対し、私は何か親近を覚え、愉しい気分になった。

『志賀直哉随筆集』61頁

ちなみに「リズム」で共感したところは次の文章である。

偉れた人間の仕事──する事、いう事、書く事、何でもいいが、それに触れるのは実に愉快なものだ。自分にも同じものが何処かにある、それを眼覚まされる。精神がひきしまる。こうしてはいられないと思う。仕事に対する意志を自身はっきり(あるいは漠然とでもいい)感ずる。この快感は特別なものだ。いい言葉でも、いい絵でも、いい小説でも本当にいいものは必ずそういう作用を人に起す。一体何が響いて来るのだろう。
芸術上で内容とか形式とかいう事がよく論ぜられるが、その響いて来るものはそんな悠長なものではない。そんなものを超絶したものだ。自分はリズムだと思う。響くという聯想でいうわけではないがリズムだと思う。
このリズムが弱いものはいくら「うまく」出来ていても、いくら偉らそうな内容を持ったものでも、本当のものでないから下らない。小説など読後の感じではっきり分る。作者の仕事をしている時の精神のリズムの強弱──問題はそれだけだ。

『志賀直哉随筆集』91頁

他にも優れたところをいくつも言い立てたいのだが、スターバックスの閉店が近づいてきているらしい。ちなみに今日は珍しくイヤホンをせずに一日のほとんどを過ごしていた。イヤホンをしていたのはこの随筆集をこの店で読んでいたときだけだった。

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