夜、澄んだ私が書いている

 私は「明るい」。それはあらゆる意味でそうである。その一つだけここに書こう。

 いや、やめよう。なんだかつまらないから。つまらないというのはいつも、「なんだか」とともに出てくる。難しい言い方をしたいので難しい言い方をすると、「なんだか」と「つまらない」は常に「共立」している。私において。いや、その「共立」が「私」そのものである。「私」は誰かを駆け巡り、私は「誰か」を駆け巡る。この交感、

 青い電灯がある。
 月がある。
 静かだ。冬の月は。いや、月はいつも静かなのかもしれない。
 遥か果てに、とても静かな人がいるような気がする。

 私は別に何かをしたいわけではない。ただ考えと戯れて、一生懸命戯れて、それでいい。それがいいのではなく、それでいい。「それでいい」と言うと、「それがいい?」と聞かれるが、「それでいい」のである。何故私たちはそんなことを聞いてしまうのだろうか。こんなこともどうでもいい。
 静かに生きていたい。私は。

 最近は物を書くことも少なくなった。なんというか、少なくなった。でもそれは書くことがなくなったからではない。ただ単に「書く」ということをしなくても良くなったのである。私は私と反応したくて書いていたが、別にそんなことをしなくても良いことに気がついたのである。別にしてもいいのである。これは自由ということだと思う。自由になろうとすることから自由になったということなのだと思う。
 これを書こうと思ったのは、考え尽くしたからである。やっと。たくさん読んで、たくさん書いて、たくさん考えて、私はやっと終わったのである。そして、だから、書くことにしたのである。溢れ出てくるから器を作ってあげようと思って。入れてあげようと思って。
 物を書くのはこういう時くらいでいい。私はそう思う。節約。ではない。ただこれでいい。ただこれでいいのである。

 私は私に言い聞かせているのかもしれないし、私を説得しているのかもしれない。なんでこんなことを書いているのかはもう書いたが、まだ私はそれが聞きたいらしい。いくら聞いたって理由なんてない。
 
 とてもゆったりと息をしよう、と思う。歌を静かに聴こうと思う。バックグラウンドミュージックではなくて、ミュージックのバックを聴こうと思う。リズムに身を揺らすのではなくて、ただ聴こうと思う。
 君と布団に入って、寝たいと思う。すー、すー、と。すー、すー、と。私たちは寝たいと思う。いや、君を巻き込むのは申し訳ないから寝たいと思う。一人で。いや、寝る時はいつも一人なのである。布団には二人いるけれども。
 これは死の象徴ではない。それだけは言っておこう。あまりにも死の象徴に見えるから。

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