面白い会話とは何か

月曜日だし、朝だし、晴れだし、グラノーラ食べたし、適当に書こう。テーマはすでに決まっている。昨日書き残している。

・後輩Aとの会話(記憶力、上下をつける、価値基準を押し付ける)
・『のらじお』の「運も実力のうちだとしても愛が大切」というエピソードを聞いての感想(『のらじお』と私の違い、『のらじお』にあって私にないもの、『のらじお』にも私にもあるもの)
2024/10/20「ええええ」

後輩と長いこと一緒に居た。五時間くらい移動時間を共にした。私は後輩の車に乗せてもらっていた。二人しかいなかった。私たちは色々なことを話した。そのなかでも特に面白かった、いや、面白くなりそうだった会話を取り出してみよう。

私たちは記憶について話していた。後輩、Aは言った。「Xさん(私のこと)は記憶力いいイメージありましたけどね。」と。話の展開はこうである。私たちは昔話をしていた。話すことがなくなっていたのかもしれない。五時間の移動の最後のあたりだった。行き二時間半、帰り二時間半、私たちは話していた。私たちは最後に話した。記憶、そして記憶力について。

私は覚えていない。小さい頃のことはもちろん、数年前のこと、少し前のことも。私は言った。「遠さに比例しないことがない。強く記憶していることがない。」と。Aはこう聞いたのだ、「昔のことも、そして最近のことも全然覚えていない。」と言う私に「それって、例えば大学の頃が楽しすぎて忘れちゃったみたいな感じなんですか?」と。そして私は答えたのだ。「遠さに比例しないことがない。強く記憶していることがない。」と。「一年前のことを24覚えているとしたら二年前のことは23覚えていて、………」云々と言えたらよかった。言いたかったのはそういうことだった。

そして、ころりころりと話は展開していって、私は言った。「記憶のスタイルが違うのかもね。俺とAは。」と。「というのは?」と聞き返した。Aは。「俺の記憶は形として似ていることから取り出しているんだよ、記憶を。それに対してAの記憶はQ&Aで取り出しているんだよ、記憶を。」と私は言った。例えば、私はこれまでの担任の先生の名前を全然覚えていない。そこでは話さなかったが友人の名前も私は全然覚えていない。それに対してAは担任の先生の名前を小1から高3まですべて覚えていた。ただ、私も担任の先生の名前を例えツッコミで引き出すことはできることに気がついた。そして私は上のように言ったのである。記憶のスタイルについて。

さらに私は畳み掛けた。何か閃いた気がしたのである。「それかあれじゃない?さっきAは「この先生はこの先生より良かったな。」みたいなことを言っていたけど、ああいう感覚は俺にはあんまりなくて、どの先生も良くも悪くもなかった、と思っている。もしかすると、上下をつけるとAのような記憶の仕方ができるんじゃないか。」と私は言った。もっと辿々しく。するとAは言った。「そうかもしれないっすね。自分は今日見たパフォーマンスにも順位つけてるっすもん。あんまり良くないのかもしれませんけど。」と。そしてAは言った。「話変わるっすけど、「依怙贔屓はダメ」みたいなやつあるじゃないっすか?あれって、依怙贔屓がダメなんじゃなくて贔屓していない人をテキトーに扱うのがダメなんじゃないっすか?」と。

私は「依怙贔屓」の「依怙」の字を思い浮かべていた。その話を聞いているとき。なぜか思い浮かべていた。そして、私も持論を話し始めた。「俺はあれやな、価値基準を押し付けてる感じがして嫌やな。贔屓自体が。例えば、片付けして偉いね、って言ったら、片付けしてない奴が偉くないみたいになるじゃん?そこまではならないとしても、片付けしてるかしてないかで何かが決まる感じが伝わっちゃうじゃん。」と。Aは言った。何か的外れなことを。私には的外れだと思われるようなことを。

そのようなときに目的地に着いてしまった。そしてそこから私はバイクで家に帰った。30分くらいで家に着いた。その30分考えていた。Aとの会話について。『のらじお』の「運も実力のうちだとしても愛が大切」というエピソードを聞きながら。

私は聞きながら思っていた。面白いなあ、と。そして思っていた。日常の些細なコミュニケーションから問題を設定して、それについて考えていく、その手法自体は似ているのに私のものはどうしてこういう面白さがないんだろう?と。

そのエピソードは『のらじお』のパーソナリティーであるかえさんの長男と次男が次のようなことを言っていたことから始まる。かえさんと長男と次男(とかえさんの旦那さんもいるのだが今回はあまり関係がない(と思ったが、実は関係がある。ただ、今回は置いておこう。最後にちょろっと書くかもしれない。)ので置いておこう。)は10円でお菓子を取るゲームがたくさんある場所に行っていた。その場所ではある工夫がなされていて、そのゲームとは別にお菓子を持ったおじさんがゲームによって獲得したお菓子の他にもお菓子をかごに入れてくれるのだという。そして、その場所を楽しんだ帰り、長男は次男のかごにゲームでは取ることに挑戦することすらできなかった、たい焼きのようなお菓子があることを発見する。長男はそれが欲しくなった。そして長男は次のように言ったのだという。「それは偶然手に入れたものだから僕が手に入れてもよかったはずだ。」と。かえさんはこのとき「たしかにな。」と思ったのだという。ただ、次男は次のように切り返したのだという。「それならお兄ちゃんが手に入れても同じじゃないか。」と。かえさんは翻訳する。「偶然手に入れたこと自体は次男が手に入れようと長男が手に入れようと同じことだ。」と次男は言ったのだと。そのあと議論は水掛け論になり、最後に長男は情に訴える形でたいやきのようなお菓子をしっぽの部分だけもらって終わった、のだという。このラジオはここからむろさんがこの話から色々な論点を取り出し、かえさんもそれに参戦する形で展開していく。その全体像自体は聞けばわかるのでここでの議論に必要な点だけ取り出そう。

まず、むろさんは

いや、まずは『のらじお』の説明をしよう。『のらじお』はむろさんとかえさんが二人でやっているラジオである。私は二人についてあまり知らないが、むろさんは人類学をかなり学んでいて、かえさんとは大学時代(だったと思う)からの友達なのだという。これくらいしか私は知らないのだが、このラジオはイメージ的にはすごくゆったりしていて、二人は対立はしないまでもふむふむと合意に至ることもない。ただ問題をたくさん出して、解釈を遊びで闘わせて、そして無言になる。そんなラジオである。

で、話を戻すと、むろさんはかえさんのお話(ここで「話」ではなく「お話」と書くのは論点が出された後、問題が作られた後だともはや純粋なストーリーとしてはかえさんの「話」を捉えられないからである。)にまず「それはあれだね、マイケル・サンデルの『実力も運のうち』の話だね。」と言う。かえさんも「そうですね。………そうだと思います。」と言う。そして、いくつか話してからむろさんは次のように訊く。「どうして次男は長男にお菓子をあげたんだろうね?」と。すると間髪入れずにかえさんは言う。「お兄ちゃんのことが好きだからじゃないですか?」と。かえさんは笑う。むろさんも笑う。そして、いくつか話してからむろさんは言う。「いろいろな論点がありましたね。」と。かえさんはほんの少しだけ間を置いて言う。「たくさん学ばせてもらいました。」と。

個々の論点自体に触れると話が散らばるので気になる人は聞いてもらえればいいのだが、私はなぜこの二人のような魅力のある会話ができないのだろうか。私はそのように考えながらバイクに乗っていた。もう結構寒くなってきた秋の夜だった。

そして私は思っていた。『のらじお』は二人で話しているからではないか?と。しかし、今日、私は思い直したのである。「でも、俺はAと話していたじゃないか?」と。そして、私は思った。「俺とAの話よりもむろさんとかえさんの話のほうが面白い。滋味深い。味がする。」と。この「味」とはなんなのだろうか?

最も奥底の話からするとすれば、その「味」というのは「問題を作ることを楽しむ」みたいな「味」であると思う。しかもほとんど享楽的に楽しむことが「味」なのだと私は思う。私たちの会話は「持論を語る」ことにも振れていく。振れていった。ヒューン。しかし、むろさんとかえさんの会話はその「ヒューン」をまるで焦りであると諭すかのように沈黙を湛えている。讃えているかのようですらある。

もちろん、むろさんもかえさんも「持論を語る」ことはある。しかし、その「持論」には緩急があるのである。力強く沈黙に耐えることもあれば、待ってましたとばかりに刀を返すこともある。いや、これはおそらくかえさんのスタイルである。むろさんはもっと「問題を作る」ことに向かっている。ただ、それにリズムを与えているのはかえさんのそのスタイルなのである。

書きたいことが膨張してきている。いま。部屋の中の空気は薄くなってきている。そんな気がする。

私たちの会話にはリズムがない。ただぶっきらぼうな気づきがゴツゴツぼこぼこ置かれているだけである。それが悪いことだと私は思わない。しかし、他人が聞いて面白くはないかもしれない、とは思っている。それに対して『のらじお』は面白い。そう胸を張って言える。まあ、私が胸を張る必要などないのだが。

もちろん、これはラジオを録っているか否かという極めて大きな違いによるものであると言えばそうだろう。しかし、ラジオを録ったところでああはならないと思うのである。それがなぜかを明らかにしたかったのだが、今回はこれくらいで許してもらおう。

冒頭の引用で私は次のように書いている。「『のらじお』にあって私にないもの、『のらじお』にも私にもあるもの」と。私は当初、昨日の夜、眠る前に前者に「友人」と答えようとしていた。そして後者に「問題を作るという気概」と答えようとしていた。しかし、いまはそうではない。『のらじお』にあって私たちにないもの、『のらじお』にも私たちにもあるもの」と問いを変換した上で答えれば、前者には「リズム」、

後者には答えようがない。いまだに私はAと享楽の共有を行なっていない。行えていない。そんな気がする。もちろん、「問題を作る」ということに関しては、ということだが。

さて、「最後にちょろっと書くかもしれない」と言ったので書いておこう。かえさんは長男と次男の話を旦那さんの運転している車の助手席で聞いていたのだという。後ろで展開される話を臨場感たっぷりに聞いていたのだという。しかし、私たちは後ろに座っていたわけではない。Aは運転席に、そして私は助手席に座っていたのである。ナビは言う。「300m先右です。」何車線もある道路を過ぎて私たちは話し始めた。問題を作り始めたのである。

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