詩作についての覚え書き

詩はなんのために作られるか。私の場合、それはもっぱら私のためである。いや、これでは答えになっていないかもしれない。しかし、どのように答えになっていないのだろうか。それはおそらく「なんのため」と「誰のため」では問いの種類が違うから答えになっていないのだろう。では、「なんのため」というのはどういうことを問うているのだろうか。それは簡単に言えば、「詩作」に目的を与えるならどういう目的が適当だと思うか、ということだろう。では、私はこれにどう答えるだろうか。私はこれに、素敵な風景を思い出すため、と答えるだろう。

では、ここでの「風景」とはなんだろうか。それは簡単に言えば、「心象風景」だと私は思う。別に、やけに作者の感情が乗っている必要はないが、それを感じようとすれば感じられるような風景がここでの「風景」である。では、ここでの「思い出す」は他ではいけないのだろうか。例えば「残す」ではいけないのだろうか。別に、いけないということもないが、わざわざ「思い出す」を選んでいるから「残す」よりは「思い出す」ことに私の「詩作」は向けられている。だから、私の「詩作」は誰かに向けて書いているのではなく私に向けて書いているのである。「残す」なら他人も眼中に入れなくてはならないが、そうではない場合眼中に入れる必要はない。ただ、私しか眼中に入っていない場合でも「残す」という側面がなくなるわけではない。なぜなら、私も大抵のことは忘れているからである。そのためにわざわざ「詩作」しているのである。

例えば、私は最近「トラックの喉に棲みつき鳴く鯨」という句を作った。これを詠んだのは部屋でゴロゴロしているときに外でトラックのホーンが聞こえてそれが鯨の鳴き声に聞こえたからである。それだけである。ただ、それを書くだけでは「詩」にならない。少なくとも私が思う「詩」にはならない。それをわざわざ「トラックの喉に棲みつき鳴く鯨」とすることが重要なのである。

では、それはなぜか。これはとても難しい問いである。別に「思い出す」だけなら多少長ったらしいかもしれないが「部屋でゴロゴロしているときに外でトラックのホーンが聞こえてそれが鯨の鳴き声に聞こえた」と書けばいい。もしこれで足りないと思うのならばもっと細かく書けばいい。それだけのことである。しかし、私はわざわざ少し思案して「トラックの喉に棲みつき鳴く鯨」にしたわけである。それはなぜか。ここでやっと「風景」ではなく「心象風景」と言った意味、「素敵な心象風景」というふうに「素敵な」を付けた意味が出てくるのである。おそらく。

ただ、これではまったく答えになっていない。というか、私が思い描いていた筋があまりうまくいきそうにないので別の筋で考えよう。私はこの「詩」=「トラックの喉に棲みつき鳴く鯨」を書くことによって、トラックのホーンと鯨の鳴き声が似ているのはトラックと鯨の「喉」が収斂進化したからだという楽しげな空想を得た。また、この「詩」を引いてきてから読んでみると、「喉に棲みつき」というのは「喉」を「海」とみなすことへと私たちを誘い、「鯨」が海でひとり「鳴く」、そんな寂寥を「トラック」の運転手とも共鳴させているように感じた。私はその寂寥をやはりひとりで居た部屋で感じたわけである。(もっと言えば、ここには『52ヘルツのクジラたち』も遠くから響いている。)もちろん、これらも「部屋でゴロゴロしているときに外でトラックのホーンが聞こえてそれが鯨の鳴き声に聞こえた」と書かれるだけでも感じられることであると言えばそうかもしれない。しかし………

よくわからなくなってきてしまった。ただ、だからと言って別に「詩作」をやめるわけではない。ただ、話は変えてみよう。

ここまで読んだ人は私がまるで「詩作」に人生を燃やしているかのように読んだかもしれない。そこまでは読まなかったとしてもいつも「詩作」しているように見えたかもしれない。しかし、それは端的に間違いである。私はごくたまに「詩作」に向かうだけであり、それ以外のときには別のこと、大抵は生活、たまに哲学(書を読むこと)をしているだけである。ただ、私は「詩作」に励んでいた時期があった。この励むときと励まないときの違いから「詩作」について考えてみよう。

私が「詩作」に励んでいたのは2020年3月のことである。もちろんその後もちょくちょく励むときはあったが、それは2020年3月が理想に見えていたからなされたものであった(と記憶している)のでとりあえずそこでだけ「詩作」に励んでいたと考えよう。

そのときに何が起こっていたかというと、コロナによって人と会うことがなくなっていた。また、私たちが作っていた踊りを披露する場がなくなっていった。この二つが重なって、やることがなく、しかしエネルギーはあったので、私は「詩作」に励んだ。と言っても別に勉強をしていたわけではなく、私の記憶が正しければ種田山頭火と尾崎放哉の句をひたすら読んでいただけだった。ただ、それでも作ろうと思えばいつでも作れた。「詩」が。もちろんいま読むと拙いものもあるだろうが、全般的に拙いわけではないだろう。よくできたものもいくつもあった。

そんな時期と比較すると、いまは人にも会っているし、踊りを披露する場もある。だから「詩作」をしていないのかもしれない。ただ、まったくしていないわけではない。それはなぜなのだろうか。

状況を精確に掴むとすれば、私はいま「詩にしたい」ということがあっても「詩作」にまで至らないときがある。それは「詩にしたい」ということがなくても「詩作」にまで至っていたとき、2020年3月とは随分異なった状況である。ただ、二つの「詩作」は少し違う。

2020年3月の「詩作」は想像力を働かせるものだった。もちろん、その想像力には山頭火や放哉の助力も大いにあっただろうし、単純に「詩」をそれとして受容する力もいまよりは劣っていただろう。ただ、全体的な傾向として私が感じたことよりは誰かが感じられそうなことを書いていたように思われる。見たり聞いたり感じたり、そういうことをしなくても「詩作」ができていたのがあの時期である。しかし、いまは見たり聞いたり感じたり、そういうことをしないと「詩作」ができない。想像力を働かせるのは「詩作」の時点ではなく「詩作」後の「詩」に対してである。だから「詩作」ができたか否かは想像力を働かせるような「詩」を書いたか否かで考えられる。スパスパ、書きたいときに「詩」が書けたときは別に想像力を働かせられようと働かせられまいと別にどうでも良かった。自分がしていることは「詩作」であるとまったく疑っていなかった。しかし、いまは想像力を働かせられないものは「詩」には見えなくなってきている。

もちろん、想像力を働かせるのにも時間や体力が必要であり、それがない場合は「詩」になっていることを願って記録するだけである。なので、「詩」になっていないけれど「詩作」にはなっていたようなことは何度もある。ただ、ここで重要なのは私にとって「詩作」が想像力を働かせるものであり、それが気持ちいいからこそ「詩作」は行われているということである。

「詩作」は気持ちいい。だから私は「詩はなんのために作られるか」という問いを誤読してまでその気持ちよさを守ろうとしたのである。言い換えれば、想像力を闘わせることが目的ではないから闘技場を閉場したのである。そしておそらく、冒頭のあたりで企んできた筋がうまくいかないと思われたのは「自分」に焦点が当たってしまうと思ったからである。「風景」を「心象風景」に変えるのも、ただの「風景」ではなく「素敵な風景」に変えるのも「自分」ということになるからである。それを私は受容にスライドしたかったのである。

この話はおそらく、私の享楽の在り方が変わったから「詩作」が変わったという話である。それをコロナという状況が駆動していたにしても「想像力を働かせる」という享楽は創作から受容に形態変化していったというのが話の本筋である。と私は思う。

「詩作」をすると生活に独特の粘りが出てくる。現実が多層的になってくる。そのことが実感できてくる。もちろん私は「詩作」にのめり込んでいるわけではない。だからその真価はよくわかっていない。かもしれない。ただ、真価なんてわからなくても気持ちいいことはたしかであり、その気持ちよさを少しでも明らかにできたらそれは価値あることである。私にとっては。

今回は割とわかりやすい話になったが、それは「想像力を働かせる」が極めて抽象的で曖昧だからである。もちろん、それは実感が伴っていないということではないが、半年後くらいの私がこれを読んだら「もっと具体的に書けよ。努力をしろよ。」と思うと思う。それはその通りである。ただ、その実例は「トラックの喉に棲みつき鳴く鯨」で示した。ところもある。私にとって「詩作」というのは「詩」を制作することと受容することがペアになったことなのである。現時点では。


補遺もしくは補足

なんというかなあ、伝えたくて書いてないんだよなあ。「伝える」ベースで考えると「未来の私に伝える」みたいなことになるんだけど、それは「伝える」ベースで考えているからで、そうじゃない場合にどう言えるかはとても重要だと思う。「詩作」について。

「伝える」の理想は「過不足なく」だと思うけれど「詩作」の理想は「過不足ある」だと思う。ただ、ただ単に「過不足ある」だけじゃ意味ない。いや、なんというか、「過剰」を誘惑するような「不足」が「ある」と「詩作」になると思う。そしてその「過剰」を想像力が補うのである。

「想像力を働かせる」というのは「想像力を働かせる」力が「詩」にあることの証左でもある。だから、私は2020年3月の私がよくわからないのである。と、書いてみたが、本当はわかるかもしれない。おそらくだが、見たり聞いたり感じたりしないままに書かれたものはどれだけ「不足」があっても「過剰」は起こらないんだと思う。なぜかはうまく言えないが、「過剰」の余地が他者性に極めて強く依存しているのである。自分ではない人が読んだら「過剰」を誘惑する「不足」になるような、そんな「詩」しか書いていなかったのである。あの時期は。いや、「しか」は言い過ぎだが、大抵はそんな句ばかりである。いや、そんなことはないかな。久しぶりにその時期の句を読んでみよう。

ある程度は詠んだ。が、完全にあれだな、いや、「完全に」は言い過ぎだが、あれだ。過去を美化しすぎている。もちろん名句はいくつかある。し、名句の卵、書き直せば良くなる発想の良い句もある。が、大抵は駄作である。駄作もあるが、というレベルではない。ちゃんと確認すれば良かった。このレベルなら、もちろんあんなにポンポンは書けないだろうが、あの頃は凄かった、というほどではない。

ちゃんと全部読んだ。特に印象は変わらなかった。私はいまの私のほうが「詩作」に関しては優れていると思う。ペアリングされていないほうの「詩作」に関しては。結構衝撃であった。こんなにはっきりと優劣を感じたのは。

なんというか、2020年3月の私はペアリングされていないほうの「詩作」していない気がする。スケッチの段階というか、そんな感じがする。それだとまだ見てられる、というか見てても楽しいのだが、「詩」だと思って読むと見てられない。別に否定したいわけではないが、別に優しくするつもりもないのでこんなふうに言ってしまった。止むに止まれず。

いまの私も多作になろうと思えばなれるのだろうか。別に多作になりたいと思わないからなれるかなれないかもわからないが、なれる気がしてきた。なんだこの、惨状、あえて惨状と言おう、それを見た後なのにこの自信は。

最近最もよく書いた日の句を読んで終わりとしよう。

と思ったが一つ気づきがある。それを確認しよう。相当強い見たり聞いたり感じたりではない場合の「詩作」、2020年3月の「詩作」やこれから見る、いや見ようと思っていた2024年8月9日の「詩作」も友人に「ほら、こんなの詠んだよ。」と見せるためになされたものだったという共通点がある。ただ、二つの相違点は友人に見せる前のチェックの質である。後者はいま読んでもある程度の質は担保されているが、前者はひどい、とまでは言わないが、「詩」ではないように思われる。「想像力を働かせる」力はない。後者にはそれがある。ただ、このように言うだけだと直線で成長してきたかのように見えるかもしれないのでもう一つ相違点を確認しよう。それは後者のほうが明らかに難しい。相当「想像力を働かせる」気のある人ではないと読むのが難しい。うまく間を取れればいいのだが。2024年8月9日のものをすべて読むのは憚られる、というかもう眠たいのでしたくない。一つだけお気に入りの句を見つけてここに書こう。

夕空を尾に塗り固め赤蜻蛉

これが万人受けするだろう。私のセンスが相当変でなければ。私としては次の句が最も好きなのだが。

赤蜻蛉翅をもぎ取り空透かす

私たちは「赤蜻蛉」で題詠みたいなことをしていた。アマチュアですらない私たちは。ファミレスで。

他の句を読んでみると、なんだか気を引こうとしている感じが少しして、それになんだか感じ入ってしまった。それは句としては失敗だろう。良い読み手を見つけるのは難しい。なんでも褒めてくれてしまう人やなんでも読めてしまう人に句を見せる際には細心の注意を払わなくてはならない。そんなふうに思った。


推敲後記

付け足しまくっていて申し訳ないのだが、一つだけ。私は「想像力を働かさせる」と書いていたところを一応すべて(見落としがなければ)「想像力を働かせる」に変えた。しかし、それが正しかったのか、私にはわからない。私の修正はなんというか、語感の問題というか、感覚の問題を感じて行われた。端的に言えば「想像力を働かさせる」は変だと思ったから私は修正したのである。しかし、「詩作」を詩を作り、そして受容することまで含む(上の言い方で言えば「ペアリング」)のであれば、やはり「想像力を働かさせる」のほうが良かったかもしれない。「詩」がそれとなるのは「想像力を働かせる」ことが現れること、「詩」だけに注目するとすれば「想像力を働かさせる」力があるときであるというのがここでの議論の重要なところであると思われる。それを単なる感覚の問題、語感の問題で修正するのはこの文章を書いた私、昨日の私に尊敬を欠いているような気がした。なので一応書いておいた。修正の是非はとりあえず皆さんに判断を仰ぎたいと思う。

いいなと思ったら応援しよう!