断層的断想
私の嫌いな考え方を発表します。
こういうことを発表する人です。
私の嫌いな振る舞いを発表します。
こういうことを発表する人は良い人のような気がします。
その人がそれをしていないとは限りませんが(私も然り)
権力から逃走するのに最も大切なことはなんでしょうか。それは権力をうまく使うことです。うまく使うというのは別に自分の利益になるように使うということではなくて、それを使うことが誰かを資することである限りで使うということです。
私が権力から逃走したいのは対面したいからです。対話したいからです。会話ではなく対話をしたいのです。私は私が否定されて初めて私というものが実体めいて見えてきます。浮遊している私の魂を器が受け止めているような感覚、それこそが私が否定される経験なのです。
と、よくわからないことを言っています。
こういう人は好きでも嫌いでもありません。だから好きです。好き嫌いというのは多くを生理的な性質に負っているものだと思いますから、やっぱり無駄なんですよ。だから、やっぱりそれを無視させてくれる、いわば「意味不明な文章」は好きなんですよ。
意味不明なだけではいけません。「意味不明である」という意味を受け取れるくらいじゃないといけません。
昨日の話も「宇宙生物になる」のではなく「宇宙人になる」としたのは、そういうことなのです。
右脳がなんちゃらを司り、左脳がかんちゃらを司るのです!
木槌でコンコン!
でもそれって、何か言っているのでしょうか。
私は何も言っていないような気がするんです。だから私は科学が嫌いなんですよ。もちろん、科学的な思考は人間の努力の結晶だと思いますよ、努力なんて嫌いな私がそういうんですから、これは最大の敬意です。しかし、科学は何も言わない。それは生き方に対して、とかではなくて、何も言わないのです。なぜなら、それはもともとわかっていたことを法則として再発見することなのですから。
分析ということを論文に際してしていました。
私は分析が得意だと思っていたのですが、どうやら苦手らしいです。まとまらないんですよ。クラスがまとまらない感じにまとまらないんですよ。もちろん、権力を使えば一発です。論文でも、私がまとめたいように情報を集めればすぐにそれはできます。けれど、それって、誰かではなくて、何かに示しがつかない行為のような気がするんです。けれどそこに示しをつけようとするとおそらく書けない。書くことそのものが失礼になってしまう。
だから、割り切る方法を探っている最中です。論文は嫌いです。割り切って、すんとしているから。
近頃よく言われるPISA型学力とか、あれはしょうもない概念だと思うんですよ。どっちつかず、というか、でも、そうですねえ、中庸は素敵なことですから、あっちに行ったりこっちに行ったりすることを権力の側だけが持っているような気がするんですよ。
あと、やっぱりですけれど、私はなんとなく、アナーキーなんだと思います。「考える」と世に言われることが苦手であることがわかってきました。今までは得意だと思っていたんですが、私が得意なのは、「考える」ではなくて「思う」だったらしいのです。
私の順序は「思う→考える」なんですけれど、「考える」はそういうことじゃないらしいんです。どうやら。
あと、私は人に文章だけで伝えるということが苦手らしいです。
自己紹介みたいになっていますけれど、何かがあればいいなと思っています。文章の中で素敵な出会いが。
ソクラテスは書いたものが一人歩きすることを嫌ったそうですが、私もそうなのかもしれません。だから、噂にも、真実にもなり得ないような、のらりくらりを好んでしまうのです。
そういう人はいるんじゃないかなあ。
たしかに、結論は出ませんよ。差延し続けているような気分なんですけど、どうなんでしょう。
正しいとかよりも面白いに近づくのがいいと思うんですけど、その面白さにはある種絶対的な正しさが必要なんですよ。きっと。私はそれを考えている。そう断言しましょう。
そろそろ時間なので終わりましょう。
別にやめるわけではないですよ。