朝、起きるまでの話
さあて、起きました。し、何かを書こうと思います。が、さきほど思いついた論旨を忘れてしまいました。実は思いついていなかったのかもしれません。
少し汚い話かもしれませんが、私は朝起きて、ふわぁー、としてから、あくびをしてから、伸びをしてから、それから目の端を、内側の端を探るのが好きです。そして目やにを見つけると、なんだかなんだか、ちゃんと寝ていたのだと思って、それで嬉しくなります。最近は朝が寒く、起きてパーカーを羽織り、靴下を履いて、トイレに行って、そしてもう一度寝ます。たまに寝られないことがあります。それは目の端を不意に触ってしまったときであるような気がします。目覚めの象徴であり、寝ていたことの証拠なのです。目やには。
さて、こんな話がしたかったわけではありません。が、特に話すこともありません。思いついたけれど書けなかったこと、そんなことはたくさんあります。たくさんあります。けれど、それはいつか帰ってきますし、帰ってこなければ忘れてしまいます。このことそのものが悲しい可能性もありますが………
私は私に露悪的に、極めて露悪的に悪口のような批判を言いたいと思いました。一昨日くらいに。しかし言えませんでした。それが私の自信故なのか、それとも悪口もしくは批判の才能の無さ故なのか、それはわかりませんが、しませんでした。
最近の私は一日、いや、何時間かで書き終わらないものは書かないことにしています。未来を頼りにして、言うなれば怠惰になっています。面白さを感じるとびっくりして、まるで熱いやかんを触ったように手を引っ込めてしまうのです。私はいつもそれを「疲れたので。」とか「やらなきゃいけないことがあるので。」とか言っているのですが、あれは嘘ではないにしても真実ではないように思われます。
そう言えば、こんなものを書いているのは昨日の夜、次の句を読んだからかもしれません。星野立子の句を。
新涼や起きてすぐ書く文一つ
まあ、これが「文」なのかはわかりません。私には書く相手がいません。これは別に未来の私に書いている類のものでもないので、これはなんなのでしょうか。
星野立子の句のなかで私が好きなのは次の句です。
障子しめて四方の紅葉を感じをり
私は浦島太郎について調べていた時期がありまして、そのときに「四方四季の庭」というものを知りました。「四方四季の庭」というのは四方がそれぞれ春夏秋冬になっている庭のことです。私はこれを知ったとき、「障子は開いているのだろうか?」みたいなよくわからない疑問を持ちました。持った気がします。そして、仮に障子が開いているとすれば、それはなんとなくつまらない気がしていました。星野立子はそのつまらなさを解消してくれたのです。
さて、カーテンを開けましょう。最近作った句を紹介してから開けましょう。今日はこれで終わりです。
哄笑に爽籟畳み込まれたり
これを読むことはみなさんに任せましょう。星野立子の句のような力が宿っていれば嬉しいのですが………