悟りとは何かーきょうの悟りー

 眠い。とても眠い。だが、「悟り」ということが分かったような気がするので書いておく。もちろん、書いておかなくてはならないのは悟っていないからだ、という言葉は受け止める気である。しかしここで書くのは「そうじゃない」ということである。
 
 かつて、悟りの体験を集めた本を読んだことがある。タイトルは忘れてしまったが「悟り体験記」という言葉が入っていたような気がする。その頃は「悟り」というものが胡散臭く思えて、いや、なんというか、どういうものかが気になってそういうものばかり読んでいた。他に読んでいて面白かったのは『仏教思想のゼロポイント』という本である。
 本の紹介をする気はないので、気になるなら読んでもらったらいいのだが、私はなぜ「悟り」なんてものに興味があったのだろうか。それは、苦悩していた、からではない。苦悩などしていない。私は「なぜ『悟った』などと言えるのか」ということが気になったのである。もしくは「悟った」という言葉が表していることが如何なることか、なんとなく理解できないように思えたのである。
 「悟り」というのはよくわかる。だが、「悟った」というのはよくわからない。「悟る」というのも少しわからない。「悟り」はわかる。こんな感じに思っていた。というか、今も思っている。

 「悟った」というのは普通に考えれば、「悟り」が完了したということだろう。私は「悟り」は完了しない、ということが言いたいのではない。"わざわざ"それを言う意味がわからないのである。人は勝手に「悟る」。私はそう思う。だが、「悟った」というのはあまりにも言明的である。それは「悟る」には似合わない。この感覚。これが伝わるだろうか。
 私は修行もしたことないし、仏典を読んだこともほんの少ししかない。しかし、感覚はある。「悟る」という感覚は。これは、間違ってほしくないが、「俺は悟ったんだ」ということではない。それが言えないということをここまで言っているのである。
 あるとき、ぼーっと愉快で豊かな気分になる。そのとき、悟っている。私はそう思う。「悟っていた」というのは正しい。それは「(現在は悟っていないが)悟っている」ではない。ただの「悟っている」である。

 そうか、「悟った」というのも「(前までは悟っていなかったが、たった今)悟った」なのか。「悟る」というのは現在形で語られるべきものなのだろうか。それとも現在進行形で語られるべきものなのだろうか。
 このような言語的な分析は「悟る」において不要かもしれない。というか、不要である。
 私は別「悟る」ために生きてないし、そもそも「悟り」たくない。つまらなさそうだから。ただ、なんとなく「悟った」というのが「悟り」ということの感覚に馴染まない表現であることが気になるだけである。

 もし「悟り」を開いた人がいたら「どうしてわざわざ『悟った』なんて言ったんですか」と聞いてみたい。怒られるだろうか。呆れられるだろうか。笑うだろうか。私は「笑う」人を信じたい。その人が別に悟ってようが悟ってなかろうがどうでもいい。その「笑った」人を信じたい。まあ、周りに「悟り」を開いた人がいる可能性がどれくらいあるのかは疑問に思うけれども。

 私は冒頭にこのようなことを書いた。

 「悟り」ということが分かったような気がするので書いておく。もちろん、書いておかなくてはならないのは悟っていないからだ、という言葉は受け止める気である。しかしここで書くのは「そうじゃない」ということである。

 「悟り」は忘れてしまう。そのたびに「悟る」ことで「悟っていない」ところも「悟った」と言えるようになる。「悟り」はこういう構造がある。つまり、その時々に「悟る」ことで「悟った」と言えるのである。そのシステムそのものが「悟り」なのである。
 「そうじゃない」というのは、「悟り」は一回限りではないということであるし、「悟った」という根源からずうっとその状態にあることが「悟り」ではないということである。書いておくのは暇つぶしである。それは忘れてしまうからではない。なぜなら、忘れたってまた「悟る」ことが「悟り」なのだから。

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