2-1-9 他者の表現を知るということ
他者の表現を知るということは自分の中にある思想をあらわす術を学ぶということではないでしょうか。
それは他者の表現を剽窃するということではなく、そのうちに存在するたしかな文章の煌めきや躍動に尊敬を払うということにほかなりません。
難しいことを言っているように感じられては言葉は死んでしまうので、ここで簡単に言いますと、偉大な他者の表現は言葉という存在の揺らぎ、つまり美しさを僕たちに教えてくれるのです。
他者の表現を知るというのは二つの方法があると思います。
一つは、表現の周辺を練り歩く方法です。
何を表現しているのか、どのよう表現しているのか、なぜ表現しているのか、何が表現を可能にし、それはまた何を不可能にしたのか、といった種類の疑問をいくつか取り出して、それを連関させていくことによって、表現が表現たる理由を知ろうという方法です。
もう一つは、表現者自身になる、ということです。
他者になるということです。
他者の目で世界を見ることです。
この方法は偶然の方法かもしれません。
僕はそれができたときには走り出したくなるような喜びと叫びにならない声が同時に上がってくるようで、どうしてもそれが身体として現れ出せないから、どこかを向いて、ただ止まっているだけです。
言い換えると、表現者に同期して自分を消すという方法です。
これは一つ目の方法が自分が読むという存在価値を持って行うのに対して、ただ自分の同期に酔っているような方法です。
僕も基本的には一つ目の方法で自分を探し、他者の表現の素晴らしさを知ろうとします。その方法はたしかに素晴らしいのですが、いかんせん、初動の感動に届くことはありません。
その意味で一つ目の方法は嘘が増えていくばかりです。どのように表現を記述しようとも、表現が反応ではなく表現であるための場に入るという行為からは遠ざかっていくばかりです。
それを「読む」と表現するのはいくらなんでも気が引けます。
せめて、「書く」でしょう。
それも僕は認めませんが。
話を戻しましょう。
二つ目の方法は偶然ですが、直感の唯一たる証明です。
自分が感情が動いたのを自分の感情が動いたように、ではなく、他者自身の感情が動いたように感じることが、他者の表現を剽窃ではない方法で知ることなのです。
剽窃と引用の狭間には同期という経験と更新が常に存在します。
僕はそのように思います。
僕という表現において、この剽窃と引用の間を見誤れば、僕という表現は他人の表現になってしまいます。
それは一番美しくない状態、つまり、自分の表現と偽って他人の表現、他者の表現ではなく他人の表現を剽窃するというあの醜い状態を引き起こさせるのです。
しかし、それもまた誤読の論理にあっては良しとされてしまうかもしれません。
つまり、剽窃も誤読すれば美しいとされる可能性があるということです。
しかし、僕はそのようなことを許しません。もし、自分がそれを行なっていることを未来で知れば、僕はその表現を追放するでしょう。
どれだけ愛していた表現であっても、追放するべきなのです。
そのように追放された表現はもしかすると別の形や姿で戻ってくるかもしれません。そのとき、胸に抱いて、自分の誤ちを彼に伝えるしか、表現を豊かに行う方法はないのです。
なんの話をしているかわからなくなってきてしまいましたね。
まあ、簡単に言えば、自分の表現できないことを他者が表現しているときはその表現に尊敬と贈与を持って愛するべきであり、それらを失った表現をもし行なってしまったら僕はその表現をどれだけ愛していようと追放せねばならない。
ということです。
それが表現者としての矜恃なのでしょう。
自分を知るということや自分を表現するということは続けてこそ、です。
そのためには、矜恃を持たねばなりません。
矜恃なき表現から豊かな思想は生まれません。