文章を書くことの本質

あんまりカーテンを開けたくない。そんな朝もあるだろう。しかし、私はカーテンを開けない。「そんな朝もあるだろう。しかし、」と言っておきながら「私はカーテンを開けない」のだ。なぜか。それは単純にカーテンをしていても光は制御できないからであり、そのこと自体が私は好きだからである。もちろん、カーテンを開けたこともあるし、外に光に満たされた世界があるのも知っている。しかし、私はこの溢れ出る感じが好きなのだ。

カーテンレールに光がリズミカル。複雑怪奇なわけではない。構造が分かればスッキリするくらいのリズム感を湛えている。奥のレースは白く、そして天使の趣さえある。二つのカーテンのあいだにはおそらくもう一度も生まれない、そんな光の姿がある。カーテンの下、そこにはカーテンの、おそらく科学ならほとんど完璧だと言われる結果がある。光はあるものの漏れ出てはおらず、私はそのリズムの正体と共に現れる光に正直さを見る。

この二つの、特になんともない、少しだけ文学的な、文学的に書こうとしているような、文章。あ、空が青んだ。雲がかかったのだろう。太陽に。光は輝かず、まるで水やり、水差しのよう。

そんなことは置いておいて、あ、また太陽が出てきた。暖かく、そして嬉しいような色になった。ああ、私の実家の十畳の、そこにはあった光の制御。暖色寒色、どちらもあった。ボタンを押せば太陽は出るし隠れるし、私は神だったのか。ただ、雲は神にも動かせまい。自由の象徴。鳥が一羽でせかせかと、飛んでゆくのよ祭りのときは。

さて、朝は眠いし文学で、それのせいで主旨がずれたしおそらく、もういくつものところは忘れています。が、してみましょう。引用の誘惑をひとつひとつ書き留めることを。例えばこういうふうに。「鳥が一羽でせかせかと、飛んでゆくのよ祭りのときは。(「心を何に喩えよう 鷹のようなこの心」『テルーの唄』)」というふうに。()のなかはその()の直前の文章を書いているときに隣にいてくれた、そんな文章になっています。いくつかは忘れていますがそれを思い出したいと思います。私はこういうふうに書いているという、そういう一つの考察でもあります。個人的な経験の場合もありますが、それは[]で書きましょう。こういうふうになります。「鳥が一羽でせかせかと、飛んでゆくのよ祭りのときは。[ある花火大会の三時間前ほど、空を見ていると小さくも大きくもない鳥が一人で飛んでいました。別に寂しそうでも、切なそうでもなく、ただ飛んでいました。](「心を何に喩えよう 鷹のようなこの心」『テルーの唄』)」というふうに。もちろん、[]のなかはそれこそまた()が付くでしょうけれど、今回は最も多くて一つずつにしましょう。この補足はおそらく文章を書くことの本質、少なくとも私にとっては本質的なことです。では、冒頭からの四段落を補足しましょう。

あんまりカーテンを開けたくない。そんな朝もあるだろう。しかし、私はカーテンを開けない。「そんな朝もあるだろう。しかし、」と言っておきながら「私はカーテンを開けない」のだ。なぜか。それは単純にカーテンをしていても光は制御できないからであり、そのこと自体が私は好きだからである。(「優れたピアニストというのは、正確に楽譜通りに弾くことができるわけですが、ただ機械みたいに再現しているのではない。鍵盤の上で指をめちゃくちゃに走り回らせることのできる凶暴なエネルギーを持っていて、その有限化として、あるひとつの曲を弾いている<中略>だから、優れたピアニストの演奏というのは、確かに楽譜通りでありながらも、楽譜通りにきちんと弾くということを超えるようなスケール感や迫力を持っている。」『センスの哲学』(千葉雅也著、河出書房新社)180頁))もちろん、カーテンを開けたこともあるし、外に光に満たされた世界があるのも知っている。(「ベルクソンは、知覚をなす生命体が世界の中心を形成し、対象に光を投げかけながら世界を能動的に浮かびあがらせるとは考えない。むしろ生命体とは、知覚世界の側から発せられてくる多様な光を浴びながらそこに屈折を生じさせ、いくつかのラインを消滅させつつ生命体にとって有効な事態を弁別していく働きとして描かれるのである。この意味で生命体や主観とは、光に屈折をもたらす媒質のように記述される。世界は多様な光の線に充ち溢れたものであり(これが『物質と記憶』におけるイマージュという術語の本来の意味だろう)、生命体や主観とは、まずはこうした光に浸りきったものにすぎない。そこで生命体とは、自らが内在する光の束に固有の偏光や滅衰をもたらしていく光学装置のような働きをなすのである。主観とは、光の屈折を生じさせる重力場のようなものだろう。」(『ベルクソンの哲学』(檜垣立哉著、講談社)19頁))しかし、私はこの溢れ出る感じが好きなのだ。

カーテンレールに光がリズミカル。複雑怪奇なわけではない。構造が分かればスッキリするくらいのリズム感を湛えている。<いきなり例外で申し訳ないのですが、この「湛えている」はおそらく『なしのたわむれ』(小津夜景・須藤岳史著、素粒社)で須藤岳史が(文脈を補足するのはやりすぎたと思うので雰囲気だけ感じてもらえればいいのですが)「飲みさしのウォーターボトルが湛えるエーテルのような空(うつ)の佇まい」(25頁)と書いているところに感銘を受けて頻繁に使い始めたものです。もちろん、「湛える」という表現自体は知っていたのですが、ここでやっとそれが「言葉の立体的理解」(『言葉の魂の哲学』(古田徹也著、講談社)99頁)に繋がったのです。こういう沈殿が見えるのも珍しいしここでの取り組みにとって有益だとも思うので<>で補足させてもらいました。>奥のレースは白く、そして天使の趣さえある。(「CDを手にしただけで音楽を聞けたら良いな天使みたいに」という麻花さんの短歌とそれを「「天使」ってそうなんだ。妙に納得してしまいました。「天使」の特徴を具体的にイメージできているのが凄い。それは同時に、「CDを手にしただけ」では「音楽を聴けない」人間という存在を考えさせる力でもあると思います。」と評する穂村弘(『短歌ください』(穂村弘著、KADOKAWA)131頁))二つのカーテンのあいだにはおそらくもう一度も生まれない、そんな光の姿がある。[ある綺麗な体育館の二階で光を屈折させる遊びをしていたことがあります。その遊びのときに私は蝶を光の陰影、光と影ではなく光の陰影で作ったことがあります。それを近くにいた友人たちに見せようと思っていたのですが、その友人たちが忙しそうだったので別の遊びをしていました。友人たちが暇になったとき、私はその蝶を見せようとしたのですが、そのときにはもう、その作り方を忘れていました。]カーテンの下、そこにはカーテンの、おそらく科学ならほとんど完璧だと言われる結果がある。<この「結果」は明確には言い表せないのだが、千葉雅也が描く「縮約」(この用語自体はベルクソンもしくはベルクソンを読むドゥルーズのものであったはずである。)や「有限化」(私はかつて「結果とは一つの有限化の手法である」みたいなことを書いた。また、上での『センスの哲学』の引用はこのことの一つの範例だとも思っている。)の議論を私なりにアレンジしようとした「結果」である。それくらいしか言えない。これはまだ「湛えている」くらいの「立体的な理解」には至っていない。>光はあるものの漏れ出てはおらず、私はそのリズムの正体と共に現れる光に正直さを見る。[最近、私は光が何かを通ることで屈折し、そのままでいることに美しさを感じている。例えば私は「机の上のペットボトルに差す。光。光は散らばり、しかしざわざわせず、ただ単に散らばっている。ただ単に散らばっている。」(「たぶん9時48分くらい」)という文を最近書いた。あと、これはここではルール違反なのだが、ベルクソンは檜垣が「光学装置」と呼ぶものと「重力場」と呼ぶものを区別していたと考えられるのだとすると、その違いを考えてみるのも楽しいかもしれない。と、いま思った。]

この二つの、特になんともない、少しだけ文学的な、文学的に書こうとしているような、文章。<このリズムは『短歌ください』を読んでいた(いまもまだ読んでいるが)ときに身につけたリズムで句点を跨ぐことが主題としてある。>あ、空が青んだ。(この「青んだ」は「草青む」という季語からの借用。その借用の後ろには「ぴとぴとり耳の骨まで草青む」という句。)[さらに言えば、最近この句の評価を恋人に聞いたところ、「草むらに耳を寄せて、「ぴとぴと」という雨を聞きつつ、「り」で湿った草むらの青さまで体に入ってきた感じがする。よくわからないけれど。」と言われたことも遠くで響いている。し、そのなかで「よくわからないからあなたが作った俳句でしょ。解釈が多様なことは俳句にとって良いことなの?」と言われたことがおそらくこの段落の冒頭の「この二つの、特になんともない、少しだけ文学的な、文学的に書こうとしているような、文章。」の「特になんともない」や「文学的に書こうとしている」に遠く響いている。ような気がする。]雲がかかったのだろう。太陽に。光は輝かず、まるで水やり、水差しのよう。(「晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の壜の中にて」という葛原妙子の歌とそれを「酢の入った壜ではなく、酢そのものが壜の中で立っているという不思議な情景が浮かび上がってきます。」と評する須藤岳史(『なしのたわむれ』(小津夜景・須藤岳史著、素粒社) 25-26頁))

そんなことは置いておいて、あ、また太陽が出てきた。暖かく、そして嬉しいような色になった。ああ、私の実家の十畳の、そこにはあった光の制御。暖色寒色、どちらもあった。ボタンを押せば太陽は出るし隠れるし、私は神だったのか。(「神さまになった気がした青に黄をまぜてみどりを創ったあの日」という麻倉遥の短歌(『短歌ください』27頁))ただ、雲は神にも動かせまい。[雲を見ていると薄い雲が見つかります。その雲は手前にも奥にもあって、右にも左にも、上にも下にも、そして手前にも奥にも、どこにでも動いているような気がします。]自由の象徴。鳥が一羽でせかせかと、飛んでゆくのよ祭りのときは。[ある花火大会の三時間前ほど、空を見ていると小さくも大きくもない鳥が一人で飛んでいました。別に寂しそうでも、切なそうでもなく、ただ飛んでいました。](「心を何に喩えよう 鷹のようなこの心」『テルーの唄』)

さて、おそらく二回ルール違反をしました。が、概ねルール通りに事は進みました。こういう感じの誘惑に耐え、引用の誘惑に耐え、私は文章を書いているわけです。もちろん、引用を完璧に覚えているわけではありませんが。そのことは檜垣の「光学装置/重力場」というまとめ方の再発見にも見られるでしょう。そこが一つ目の「ルール違反」。もう一つは「言葉の立体的理解」のところ、この文章全体を方向づけるものを一つだけ示しておきたかったのです。すみません。

私はこのように自分の言葉の来歴を知ることが好き(補足できなかったところ、特に繋ぎ目とかでもないのに補足できなかったところも好きですよ。)なのですが、これはどうしてなのでしょう。そういう疑問をわたくしは何度か抱いたことがあります。もしかすると「誘惑に耐え」ているという、その姿の向こうにエネルギーを感じられるからなのかもしれません。では、ここに現れてすらいない幾多もの誘惑に耐えた結果としての文章としてこれを読むことにしましょう。そう、推敲です。この推敲は私にしかできません。私にしかできないことはこれくらいしかありませんが。最後に一つ、短歌を置いておきましょう。私はこういうこと、詩を最後に置くことをよくするのですが、これはなぜなのでしょう。これは真の疑問です。私にとっては。では。

本五冊胸に置きますぐねぐねの道を行きます耐え忍びます

推敲後の私から少しだけ答えましょう。あなたのその作法について。推敲するというのは書き直したくなるということとほとんどの場合は同じです。しかし、詩というのは書き直しを拒みます。渡邊十絲子が「詩に共通していえることは、「あらすじ」を言うことができないということである。つまり、どのことばもひとしい重みをもって書かれているために、詩のなかのことばを取捨選択することができない。あるいは、全体としてなにかを伝達するための文章ではないので、要約という行為が意味をなさないのである。
そこに書かれていることばが伝達のためのものだったら、わたしたちはそれを要約するこことができる。しかし、「沈黙の部屋」にしろ、「『木の船』のための素描」にしろ、要約は不可能だ。一文字もけずれない。
それがつまり、これらの作品が詩であるということなのだった。」(『今を生きるための現代詩』(講談社)67-68頁)と言っているように。だからあなたは書き直さないために、そしてまた書くことを始められるように、詩を最後に置くのです。

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