「私は天才だ!」という昂り
少しだけ考える。解きほぐす。以下のことについて。以下は私がさっき、書いたことである。
なんだか私は、いい句をたくさん作りたい、と思っているようである。しかし私は、別にいくつかの句があり、それが人生を豊かにすればいいと思っている。というか、人生をわざわざ持ち出すとき以外そんなことは思わない。さらに言えば、その「いくつかの句」は他人のものでも一向に構わない。私はそうも思っている。それを私には知ってほしい。
うーんと、皆さんの負担にならないように先に言っておくと、私は結構自分にアドバイスのようなものをしがちである。しかも「知ってほしい」みたいな形で。それはなぜかと言えば、私が目的とか成長とか、そういうことが嫌い、というか、ある程度距離を取りたいからである。なので、最後のレトリックは無視してもらったらいい。とりあえずは。
ここで試みられているのは「いい句をたくさん作りたい」ということを「本当に『たくさん』作りたい」のかと問い、さらには「本当に自分で『作りたい』と思っている」のかと問うことで解していくことである。そして、その解す側の見解として前者には「いくつかの句があ」れば良いのではないか、そもそもそれすらも「人生をわざわざ持ち出すとき以外」に必要ないのではないか、という見解が、後者には「他人のものでも一向に構わない」のではないか、という見解が出されている。そして、それに納得して私は「私はそうも思っている」と言って「いい句をたくさん作りたい」ということを相対化している。
それはそれでいい。し、真理であろう。ただ、相対化しつつ「いい句をたくさん作りたい」と思っていることを捨て去っているわけではないことも重要なことである。
私は冒頭で引用したことを書いたあと、続けて次のように書いている。
「私は天才だ!」というある種の昂りの正体について、生きる力を賦活することに充分配慮しながら考えたい。
ここからするのは「生きる力を賦活することに充分配慮しながら考え」るということである。私は「成長」だとか「目的」だとか「人生」だとか、そういうものが大嫌いである。上では「ある程度距離を取りたい」と言っているが、あれは外向きの態度であり、本当は大嫌いである。しかし、それを嫌うことによって「生きる力を賦活する」ことができなくなるならば、それはそれで本末転倒だとも思っている。そういう難しさがここにはあるのである。
「『私は天才だ!』というある種の昂りの正体」について私は考えたいと言っていた。なので「私は天才だ!」と私がどういうときに思うのかを簡単に掴んでおこう。
簡単に言えば、いい俳句ができたときに私は「私は天才だ!」と思う。例えば最近「蛍の夜星座にならず揺れにけり」という句を作ったとき、「これは凄い句を作ってしまった。俺は天才だ。」と思った。し、同居人に言った。もしかしたら誰かがいるからそう思っている、わざわざ「私は天才だ!」と思っているのかもしれないが、少なくとも私の実感としては一人でもそう思っている。言っているかは別として。もちろん、これは勘違いの場合もある。後日読んでみて、「んー、勘違いだったか?」と思ったり、「んーと、ちょっと詰めが甘かったかあ。」と思ったりすることはある。しかし、大抵は後日読んでも素晴らしく、それでまた「やっぱり天才だったな。俺は。」と思う。そういう昂りがあるのである。
で、私はこれがなんなのかを知りたいのである。なんというか、こういうことがあるとやる気が出る。生き生き生きられる。別にいつも生き生き生きている必要はないが、そうやって生きられるのは嬉しい。そして安心する。これはなんなのだろうか。
私はその昂りを共起をそれとして考えないから起こるものとして考えることがある。例えば上で挙げた「蛍の夜星座にならず揺れにけり」だと、私はかねてから蛍たちが川に映っているのは天の川みたいだみたいなことを思っていて、そこでたまたま「蛍の夜」というワードが思いついて、それでこの句ができたのだと考えることがある。そして、ここではまだかねてから思っていたほうも思いついたほうも言うなれば「たまたま」で、その僥倖に昂って
大根おろしを擦ってと頼まれたのですってきます。また続き書きます。たぶん。
擦ってきました。まだご飯まで時間がありそうなので書きます。
その僥倖に昂っているのだと思う。ただ、このように共起、二つのことがたまたま同時に起こっただけなのだ、と思うと、天才性は薄れる。もっと昂るなら、というかたぶんそうなのだが、そもそもの二つも僥倖であると言えばそうであると思う。これら、僥倖感が薄れていくと、だんだん昂らなくなってくる。たぶん。
うーん、なにを考えようとしていたのか忘れてしまった。というか、そもそもなにか思い描いてすらいなかったと思う。なんとなく連想されたことを書き継いで今回は終わりにしよう。結論は簡単で、詠みたいなら詠めばいいし、書きたいなら書けばいいし、読みたいなら読めばいい、ということだと思う。生き生き生きるため、よく生きるために。
先日、久しぶりに友人に会った。三人であったから友人たちと言ったほうがいいだろうか。その友人たちは言った。「私たち(友人たちのこと)はめちゃくちゃ他人軸で生きているけど、○○さん(私のこと)はめちゃくちゃ自分軸で生きていますよね。」と。私はなんとなく違和感を感じた。それはなぜなのだろうか。
ここまでの話を無理やり読み込むと、私は作品を読むときは、自分の俳句を読むときは「書いた私」と「読む私」に分かれている。そして、「読む私」が評価していて、「書いた私」が評価されている。この場合「他人軸/自分軸」は二つの仕方で解釈することができるだろう。一つは「書いた私」と「読む私」を「他人」だと考えて「他人軸」であるとする仕方。もう一つは「読む私」と「書いた私」を「自分」だと考えて「自分軸」であるとする仕方である。その友人たちは「○○さんは自分がいいと思えばそれでよさそう、他人がいいと思わなくても気にしてなさそう。」とも言っていたから、おそらく後者であることになるのだろう。しかし、私は「読む私」にとって「書いた私」は「他人」であればあるほどいいというか、「いい」と受け止めやすいというか、そういうふうに思うので「他人軸」だと思っている。
いや、うーん、別に変なことを言おうとしているわけではないのである。ただ、変なことを言おうとしている感じにはなっている。無理に綺麗にまとめようとして。
よくわかんなくなってきてしまった。
なるほど、というルートを見つけたが、そろそろご飯らしい。ご飯を食べた後やることがあるわけではないが書き継げる予感はしないので示唆して終わろう。今週も終わろう。
自分について自分で判断するためには自分は判断する側とされる側に分かれていなくてはならない。通常、この分離は自分のなかで起こっていることにはなりやすいものの自分と他人(たち)の関係から類比することによって遂行されるだろう。しかし、私はその遂行が極度に読み書きに偏っているのである。さらにはその偏りのなかで判断のために必要な解釈と呼べるような行為を極めて制作論的に考え、そうできない場合は「天才だ!」と言って憚らないので「自分軸」だと見られやすいのであろう。ただ、私自身としては結局「読み書き」の「読む」側が判断しているという意味では「他人(たち)の関係から類比することによって遂行される」分離及び判断と大きくは違わないので「他人軸」なのではないかと思っているのであろう。
最後らへんはまだごちゃごちゃしているし、「書いた私」にとって「読む私」が他人である仕方と「読む私」にとって「書いた私」が他人である仕方は別であることがここまでの記述ではすっぽり抜けているとも思うのでまたいつか考えたい。ある程度は整理できてよかった。いい一週間だった。来週もよく生きようと思う。生き生き生きられるように願う。