沈思黙考できないのは愛だけでは生きられないからだ
僕だけなのだろうか。
沈思黙考できない。
話すか、書くかしていないと考えることもできない。
言葉で思考しているからではない。頭の中で誰かと誰かが会話するか、僕が何かに書いている想定をするかしか僕は思考の方法を持たない。
僕は他人に聞いたわけではないから僕だけなのかわからないが、とにかく沈思黙考できない。
それが僕だけでないとすると、それはなぜなのか気になる。
仮定ばかりの話で申し訳ないが、世の中はそれこそほとんどが仮定だから楽しく付き合ってくれると嬉しい。
沈思黙考できない。
それには理由がある。
コミュニケーションは沈思黙考では進まないからだ。
考えてみれば分かるが、人類が沈思黙考が得意な性質を持っていたとすると、僕たちは新しい考えを古い考えから生み出せることはあっても、新しい考えと別の新しい考えから新しい考えを生むことができなくなる。
コミュニケーションというのは、おそらく相手のことを聞き入れるという契約によって成り立っているから、そもそも相手のことがわからなければ成り立たない。
相手のことを理解するには相手のようになるしかない。けれど、沈思黙考しかできなければ、それもできない。自分が考えているように相手も考えているとすると、相手も沈思黙考している。それをいくら聞き入れようとしても何もわからないのだ。自分がもう一人増えるだけで、質量が増えるだけで、何も変わらない。
だから、社会的生物としてコミュニケーションを求められたヒトという生き物は沈思黙考できないのではないか。
たしかに、コミュニケーションにおいて発声を伴わないこともあるだろう。だが、沈思黙考というのは、行動そのものが伴わないのだ。
もっぱら思うことに、考えることにだけ力を使う。そんなことが可能なのだろうか。
僕がその行為を為せるとき、それは愛を知ろうとしているときだけだ。
愛している人をおもい、考える。それだけで事足りる。他は何もいらない。
人間が愛だけを求めるのなら、それでもいいのかもしれない。
しかし、人間は人間である前に動物であり生物である。
生物に普遍のコミュニケーションの取り方、外界に適応するという本能を抜きにしたとき、人間は真に人間的になるのかもしれない。それの極限として沈思黙考は生まれたのかもしれない。
僕はこの文章も書きながら考えている。生物でしかない人間がその傲慢さを憂うための仕掛けなのかもしれない。それならば、神様は嬉しい副作用を用意している。
魔力のような流動性。花が散るように、雲が流れるように、僕の考えは流れる。適応か適応じゃないかわからないようなその流れが僕たちの創造性なのかもしれない。
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