正木ゆう子から鑑賞を学ぶ1
クールにスパッと、正木ゆう子から学びましょう。「これは秀でた句です。」というふうに選んでもらって、「こうこうこうだから秀でているのですよ。」と教えてもらって、そこから何かを学び取りましょう。むしりとるように。もっとお上品な仕方はこの本をとりあえず通読してからです。
具体的にどういうふうに進めていくかというと、『現代秀句 新・増補版』を最初から読んでいって、優れた鑑賞だと思われるところがあれば、そこから何かを学んでいくというふうに進めていきます。
『現代秀句 新・増補版』は一頁ごとに一句と正木ゆう子の鑑賞が付いている本です。いろいろ説明したいことはありますが、どうせおいおいわかってくると思うので一つだけ。秀でた詩というのは「秀でている」と言い切れる優れた詩人によって存在すると私は思います。そして、詩人の存在価値が大きい詩とそうではない詩というものがあると私は思います。簡潔に言い換えれば、名鑑賞ゆえに名句であるものとそれ自体が名句であるものとがあると思います。別に優劣はありません。ただ単にそういうものがあるだけです。私は「名鑑賞ゆえに名句である」ような名句を学んでいきたいと思います。そしてその「名鑑賞」も学んでいきたいと思います。なので、それ自体が名句であるもの、「名鑑賞」なしにでも名句であるもの、名句であると思われるものはスキップします。あと、まだ良さがわからなかったり、鑑賞自体が詩のようになっているだけのものだったりはできる限り誠実に弾いていきたいと思います。いつかわかるようになるかもしれませんから、その余地をしっかり残して、かつスマートにスパッと、そう、クールに学んでいきたいのです。では、始めましょう。ちなみに虫食いで読んではいるのでなにもかもはじめて読むというわけではありません。
夜をこめて蟲の淸めし曉ぞ
最初の句です。生年順にしたら最初になったと正木も言っています。ここでの鑑賞は「作品記述」「解釈」「正木のエピソード」「後藤のエピソード」という四段落で構成されています。ここでは最初の二つ、「作品記述」と「解釈」を取り上げましょう。まずは「作品記述」。
夜の明けるまで、夜を徹して家の四囲で盛んに鳴いていた虫の声も、作者が雨戸を繰るころにはおさまって、庭には新しく清らかな一日が始まっている。この暁は虫たちが夜の間に清めたものだ、と作者は今は声をひそめている虫たちに心を遣っている。
なんというか、私はこの句を読んだとき、その抽象的な良さはわかったのですが、「夜を徹して家の四囲で盛んに鳴いていた虫の声」というふうに具体的なイメージにはなっていませんでした。そして、この句を読むことにおいてこのイメージ以外の仕方がないと言えばないような気もしてきます。だから取り上げました。「蟲」を「虫の声」に少しだけ、しかし確実に具体化していくその仕方が学びになりました。もしかしたら「正木のエピソード」で書かれているように是山宅を訪れないとわからないことなのかもしれませんが、このような微かな、しかし確実な具体化というのは鑑賞にとってとても重要なスキルであるように思われます。また、これはただの「作品記述」だと言えばそうなので、それゆえにスルーされると危ないと思って取り上げたのかもしれません。私に言い聞かせるように。次は「解釈」です。ここでの「解釈」は「よりよく読むことを目指してより踏み込んで読む」みたいなことであるとお考えください。
内容が清新なだけでなく、この句自体が清新の風を体現していると思えるのは、「夜をこめて」と、「ぞ」の強い断定のせいである。たとえば「夜もすがら」と言い換えてみれば、意味的には大きく違わなくても一句に緊張の失われるのがわかるだろう。作者は小さな命の一生懸命さをこの上なく尊いものに思っており、そのことが一句の響き自体に表われている。
この、言わば駄作にしてみるみたいな手法は穂村弘が『短歌ください』で使っている手法でもある。なんというか、これは結構上級者のスキルであるような気がする。しかし、これができると名句の名句たる所以がよりはっきりとわかるだろう。頑張って身につけていきたい。「緊張」と「小さな命の一生懸命さをこの上なく尊いものに思って」いることをカップリングするのは比較的あるカップリングだと思うが、やはり素敵なカップリングである。
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
俳句に明るくない私でも知っているような句である。そのようなことを考慮してか、ここでの鑑賞はこの句が現れてくる流れやその流れの中でも粒立った一句となっている理由を万太郎の出自や配置の妙に見るようなものとなっている。一段落目は。私が引きたいのは二段落目である。このままではすべての頁を引用することになってしまうのではないか、という不安が頭をもたげるが、それが不安であることは錯覚であると思うし、そもそも私たちはどうしても慣れてしまうからその不安は自ずから解消される、されてしまうとも言えよう、そうなるのだから気にしないでいいよ、と私は私に言った。
小説家で劇作家でもあった万太郎は、俳句は余技だとしきりに書いているが、「いのちのはてのうすあかり」という、これほど漠然とした言い方は、確かに余技という自覚の賜物ではなかったかと思う。俳句を目的化したとたんに逃げてしまうような言葉の丸みと潤いが万太郎の句にはあり、掲句が愛されるのもそのゆえであるように思われる。
私は俳句について「余技」であるとすら思っていない。なんというか、「余技」というのは「いろいろできるなかの一つ。かつ、主要なものではない。」みたいなことだろう。別にそれは俳句を貶めているということではなく万太郎のなかではそうだったということだろう。知らんけど。それはいいけど、私は「俳句を詠むぞ!」と、ここでの正木の言い方を借りれば「俳句を目的化した」ような詠み方と、もはや自分が詠んだとすら思えないような詠み方と、経験の熟成がひとまず形をとっただけであると思われるような詠み方と、その三つくらいしか知らない。どれも「余技」ではない。それゆえに私の俳句には「言葉の丸みと潤い」とないのかもしれない。しかし、「丸み」はあるときがあるし「潤い」もあるときがある。そんなふうにも思うので、「丸み」と「潤い」のカップリングが得られなかっただけであると言えばそうである。しかし、このカップリングが得られるような、そんな詩性が素敵だとも思う。ちなみに私のなかで「カップリング」と「ペアリング」は違う。なにが違うのかと言われると難しいところだが、二つの物事が相互浸透している場合は「カップリング」で、そんなことはない度合いが強くなっていって、どこかを越えると「ペアリング」になるのだと思う。ここからのキーワードかもしれない。
と、言ったのはいいが、そろそろ来週一週間の夜ご飯を買いに行かなくてはならないので今日の勉強はこれで終わりにしようと思う。もしかしたらあとで、時間があればもう一回やるかもしれない。最後に一つだけ言っておきたい。私には知識が足りない。俳人や季語、それらに対する経験が足りない。しかし、だからと言って俳句が読めないわけではない。書けないわけではない。詠めないかもしれないが読めるし書ける。そんなふうに思っておくことにしよう!