人を待っている、本を整理している

 人を待っている。人を待つというのは大して楽しいことではない。しかし、いつ来るかわからない終わりに怯えるというのは人生も同じことである。だから私はここで、文章を書きたい。

 ここで書くのは単純なことである。ここで書くのは「自分が変化していることを知ることは重要なことである」ということである。さらに言えば、それを「書架」から考えたい。
 私の部屋にはいくつかの書架がある。リビングにもいくつかの書架がある。ここで書きたいのはリビングの書架が「自分が変化していることを知る」ことにどのように関わるか、ということである。
 いつ来るかもわからないので端的に書こう。私はリビングの書架に読みたい本と読みたくなるだろう本を置いている。たまに本を整理するときに読みたい本と読みたくなるだろう本を置いている。三つ置く場所があり、それぞれ十冊ずつくらい置ける。なので、一度で三十冊くらい置くわけである。
 私はときたまこの書架を見る。そして、思う。「あれ、大して読みたくないやつと当初読みたいと思っていた理由とはおそらく違う理由で読みたいやつしかない」と。私は変化しているのだ。おそらく一冊読むごとに。いや、一章、いや、一節、もしかすると一段落、はたまた一文、それらを読むごとに「読みたい本」が変わる。私はそのことで「自分が変化していることを知る」のである。もちろん、「読みたい本」は一冊とは限らないのでもっと複雑な変化がある。そのこともわかる。緩やかで複雑な変化。私はそれを知る。
 「読みたくなるだろう本」はどうだろう。変わるだろうか。私はそこに大抵いつも興味を持つだろう本を置く。私は「読みたくなるだろう本」としてそれらを置いているが、結果的にはそうなっている。何度か私は本を置いてみたことがあるが、いつもそうである。なんならそこは変えなくても良いくらいである。しかし、そこにある本を読むと「読みたい本」はかなり変わる。かなり変わると言ってもどれくらい変わっているかは本をもう一度集めて比較してみないとわからないが、おそらく「読みたい本」を読んでいるときよりは変わっているように思われる。
 全部読むことはない。また整理するときに本を並べるだろう。いくらかのテーマを携えて。こういうふうに私も変化するのだろうと思う。私たちは、いや、私は少なくとも、人はすぐ変わると、もしくはまったく変わらないと思ってしまう。しかし、私はその書架を見るたびに、「ああ、人は緩やかに、そして複雑に変わっていくのだな。」と思う。そして、そのことによって私は私を軽く諌めるのだ。
 「読みたい本」と「読みたくなるだろう本」の違いはよくわからない。が、私はそれらを精確に選び取る。緩やかな変化と複雑な変化、それぞれを象徴していると言ってもそんなに間違いではないだろう。
 私は次のような詩(?)を書いた。

第四書架。それは最も周縁的な積読である。

2024/3/18「才能・滞納・解放・財宝・待望・胎動」

 第三書架までも「積読」ではある。もしかすると読まれない未来の本たちではある。それは私をおおらかに包む。私はそのことによって考えたり、受容したり表現したりできる。第四書架は「周縁」に確実に存在する。未だ見ぬ、いや精確に言えば、見ていても読んではいない。書架に入れてはいない。そんな本たちに囲まれる。そして私は私の知らない私、私たちを知るのだ。
 これがなぜ「重要」なのか。それはわからない。別に教訓にしたいわけではない。ただ、「よく生きる」の単純さで私は書架に本を入れるのである。「読みたい本」と「読みたくなるだろう本」を。

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