改作と鑑賞8
引き続き「改作と鑑賞」をしていこう。軽く説明しておくと、過去の自分の俳句を改作したり鑑賞したりすることをしていくということである。まあ、見ていたらわかる。では始めよう。
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薄原空の腹話術したり
発想はいいが、音数が揃っていない。あと、「空」がもう少し具体的であるといいと思う。
→天空の翻訳したり芒原
これだと観念的すぎるきらいもあるが、広がりは感じられる。まだちゃんと直に見て詠んでみたい。
欠伸して夢を出し切り冬の朝
欠伸はまだ眠たいときに出るものというよりはそろそろ目が覚めてくるときに出てくるものであるというのが新しく、そして確かな把握であるように思われる。「冬の朝」はその区切れがより強調されるし、季節の巡り全体で見ると「欠伸」のような位置に「冬の朝」があり祝いの雰囲気すら感じられる。
tanθの朝日春来たり
よくわからないがなんとなくわかるのは、私がtanθに「漸近」のイメージを持っていて、春がそのイメージと響き合うからであろう。夜が一気にきらりと明るく明けるような、そんな感じが春の訪れと勘違いされているようにも見えるが、それも「漸近」的な気がする。
髪くるり伸ばして春を感じおり
いつもは髪の毛をくるくるしていて、春の兆候を感じ取ったときそれを確実にするためにくるくるしている髪の毛をピンと伸ばす。そんなリズムを感じた。習慣から呪術への切り替えと季節の変わり目が重なって興味深い句である。
春追いて母は八時に剥がれけり
うーん、私の母はこんな感じではないが、たしかにこういう母もいるかもしれない。「は」のリズムなのだが、それが死ぬことを剥がれると言わせていて、そういう強情が魅力的である。もちろん剥がれるを死ぬと読まなくてもいいが、誰か(ここでは「春」なので何かかもしれないが)を追って死ぬということへの実感が深い季節なのかもしれない。春は。
春老いて天涯孤独の日向あり
暖かいのか、そうではないのか、そういう「日向」がある。そういうふうに思わされた。「天涯孤独」というのは本来哀しいというか、寂しいというか、そういうものだと思うが、老境の微かな喜びのようにも感じられる句である。
日向ぼこ青の天球溶けにけり
→日向ぼこ白の天球溶けにけり
たぶんだけれど、改作後のほうが言いたいことに沿っていると思う。おそらくだが、空の真ん中は青く、周りが白いというのを卵形のチョコレートが溶けるみたいに見立てて句にしたのだと思う。そうなると、白の天球が溶けて宇宙が微かに、しかし確実に存在してくるほうが句意には沿っていると思う。まあ、ただ、溶けたら白くなるという謎の論理を示していると見れば、それはそれで改作前の句も趣深い。
自転車の鈴が自ずと鳴るが春
→自転車の鈴の自ずと鳴るが春
「が」だと嘘すぎるというか、多少冷めちゃうのでもっと微かにしておく必要があると思った。発想自体は素晴らしく、それが発揮されているなら確実にいい句である。まあ、意味はよくわからないっちゃあわからないが。
雲流る薄原揺る左打ち
まあ、右打ちではないかもしれませんね。それくらいしかわかりません。「左打ち」のところが難し過ぎたんでしょうね。なので難しすぎると応答になってしまったのでしょう。ただ、まあまあいい応答だとは思います。
この世から剥がれたあとの春みたい
凄過ぎてよくわからないです。凄いことはわかります。
光食む風に吹かれて夏木立
→夏木立風に吹かれて光食む
「光食む風」に吹かれる、みたいに読めちゃうのでこういうふうにしました。「光食む」はいい発想で、2024/4/1に作った「光食む緑幼児キュビズムの樹」という句に由来するんですけど、まだちゃんと活かしきれていない気がします。みなさんも使ってもらっていいですよ、全然。
川沿いのバス追いかける春日かな
綺麗で、お手本のような句ですね。映像がありありと浮かびます。もしかすると「春日」よりもいい季語があるかもしれませんが、いまの私はこれがベストだと思っています。
春雨のバスに流るるカンディンスキー
いやあ、改作できそうなんですけど、あと一歩うまくいきません。
ぴとぴとり耳小骨まで草青む
死んだあと草原に寝転んで、耳小骨まで新しい息吹が訪れる、みたいな感じですね。「まで」というのはそれ以上は「草青む」ことはないということなんでしょうか。それともそこまでなら「草青む」ことはわかるけれどそれ以上はわからないということなんでしょうか。どちらも魅力的な解釈であるように思います。「死んだあと草むらに寝転んで」と何気なく書いていますが、変な表現ですね。
→死ににけり時青々とうつ伏せる
よくわからないですけど、自分のことを「時」と呼び、仰向けではなく「うつ伏せ」になるという、そういう人生観を、死生観を感じます。もう少しいじれば他人にもわかるようになるかもしれません。ただ、これでも魅力的だと思います。「る」の使い方が間違っているかもしれませんが。
あの月とついに二人きり秋の朝
あの月とああ二人きり秋の川
言いたいことは「月」とやっと二人きりになったということである。なんだか、改作できそう。
うーん。そういうときほど難しい。
ビー玉じゃなくて世界が美しい
「じゃなくて」が「じゃ/なくて」になっているのがなんだかいいですね。いまの私ではうまく言えませんけど、それがいいと思います。
トルクメニスタンの首都を覚えけり
これも「トルクメニスタン」を「トルクメニ/スタン」にしているところがいいですね。なんというか、持て余している感があって、無季の句ですけど、春みたいだなと思いました。
太陽に祈りて曇り体育の日
なんというか、やりきれなさとやってやるぞ感がいい感じに同居している気がします。朝の時点で詠まれたものとして読むと昼から晴れてきそうなまっすぐさがあります。
鶯に祈りのいろは教えけり
鶯に祈りのいろは教われり
これは改作というよりもどっちかがいいか決めきれなかったんでしょうね。前者だと釈迦に説法感があって、後者だとほのぼの感があります。なんというか、鶯はたまに鳴くのが下手というか、私たち人間からすると下手に聞こえるときがあって、そういうことを思うと前者のほうが深みがあるように思えますね。
春めきてそれでも車は走りけり
「は」を抜いて「春めきてそれでも車走りけり」にしてもいいかもしれませんが、「は」があるほうが「それでも」感が強くていいと思います。十七音に収まらないことによって不思議に思っていること、そしてそのこと自体が不思議と言えば不思議であることが強調されているように思います。
夜ご飯を作る時間になったのでとりあえず終わります。「改作と鑑賞」はゆったりした時間があることが大切なのですから。今回読んだところはほとんどいい感じでしたね。