2-1-4 自分を表現すること
自分を表現したい。
と思う人、多いと思います。
もちろん、こんな話をしている自分もそう思っています。
けれど、新しい概念や考え方を創造してやろう、とか思っているわけではありません。
ただ、他者を豊かに表現しよう、とか、他者に豊かになってもらおう、とか考えてこういうことをしているわけです。
まあ、別にそれが成功しているとかしていないとか、そういう話は置いておいて、こういう風に表現していると、世界が美しく見えてくるものなんですよね。不思議なことに。
だから、「僕は自分についてよく考える。」みたいなこと言ってましたけど、それはなんというか、確認の意味でしかなくて、僕が好きなのは、他者について考えることです。
だから、「本当の自分」とか「自分探し」とかに興味が湧かないし、そういう話もよくわからないから、あまり語れないし、語りたくないんですよね。
わからないものを語るのってわかるものを語らないよりももっと悪いことじゃないですか。
わかりませんけれど。
まあ、そんな話は置いておいて、今回は「可能性としての自分や自分の可能性というのは他者が表現してくれます。それは自分が可能性としての他者として他者の可能性を表現するのと同じことです。」ということについて考えてみましょう。
といっても、ここで言いたいことはただ一つなので、さっさと示しておきますね。
「自分は他者のうちでしか見つからない。」
これです。
可能性としての自分や自分の可能性を他者が表現してくれる、というのは面倒くさい言い方をしてしまっていますが、簡単に言えば、自分で自分の表現なんてできない。ということです。
んー、まあ、これを説明するのも骨が折れますが、説明しましょう。
自分で「これが自分の表現だ。」ということはよほど自分を対象として見るときにしかできないものです。
しかし、対象というのは純粋なものではありません。言いかえれば、ほかのなにかとの関係でかろうじて対象は対象たる資格を得ているのです。
まあ、ここらへんの対象の話を展開すると、すぐカントやヘーゲルが「へいへい!」といった感じで割り込んできてしまいそうなのですが、それを退けて話しましょう。
まあ、簡単に言えば、自分で自分の表現を「自分の表現だ」と言ったその時からそれは自分の表現ではなくなっていく、ということを言いたいのです。
「よくわからないけれど、じゃあ言わなかったら自分の表現であり続けるのか、」と言う人がいるかもしれません。
そうです、その通りです。
けれど、それでは自分は発見できません。
それは可能性にもなっていない自分だからです。
実存主義というのはそのようなことを少しおおげさに言っている感じがしませんか。
話がずれてしまいましたが、自分の表現は他者が表現してくれて、他者の表現は自分が表現するのです。
わかりにくいですよね。
まあ、ここで例を出してみましょう。
ニーチェは僕にとって他者です。
ここで躓く僕もいるのですが、ひとまず置いておきましょう。
ニーチェを僕は読み、彼についてたくさん書き表します。
その内容はニーチェのことになります。ニーチェの可能性かもしれないし、現実かもしれない。まあ、そんなことはどうでもいいのですが、僕はせかせかとニーチェを読み、ニーチェについて書き、ニーチェを知ろうとします。
このせかせかとしたたくさんの行為が僕の中にニーチェをうみだすのです。
そしてその行為はその都度僕のニーチェ像を固めていきます。もしかしたら転換することもあるかもしれませんが、それもニーチェ像を固める行為に含まれるでしょう。広義に固めるということを考えれば。
そしてこのような行為は僕だけのものではありません。隣人もそのような行為をしているかもしれないし、友達も、家族も、恋人も、そういう行為をしているかもしれない。少なくとも、哲学界隈の人はしていることでしょう。
つまり、ニーチェという言葉にはニーチェ像が集積されているのです。
可能性と現実性の話をしていたこともあったので、それに沿わして考えてみると、ニーチェという言葉に集まったニーチェ像は多くの人に共有される部分があります。それがニーチェの現実性です。そして、ニーチェ像は独自に形成されることもあります。ハイデガーは形而上学の革命者と一般に見なされている、または見なされていたニーチェを形而上学の完成者としてみなしました。(すごく簡単に言うと、ですよ。)それは彼独自のニーチェ像です。当然ニーチェはそのような転換においてもその業績そのものは変化していません。けれど、新しいニーチェが生まれるのです。そして、そのような独自の像がニーチェの可能性なのです。
このようなことを考えると、自分で自分の可能性を表現するというのは、とてつもなく面倒臭く不可能に近いことが理解されるでしょう。
またそのような像の集積は自分にも行われています。
しかし、ここで重要なのは、像の集積は空洞を必ず生み出すということです。
いくら他者のうちに自分が存在している(表現されている)といっても、それらがすべて集まることは不可能ですし、すべて集まったところで、自分から自分に向けた自分像というのは確実に残っていることになります。
そういった意味で、自分というのは三つの意味があるのでしょう。
自分像の集まりとしての自分、自分から自分に向けた自分像としての自分(理想の自分?)、二つの自分が集まってもなお測りきれない自分、の三つがあると思いませんか。
わかりませんけれど。
「自分は他者のうちでしか見つからない。」といっているときの自分はどの自分でしょうか。
正解は、三つの自分すべてです。
自分像の集まりとして自分はまあ簡単に理解できるでしょう。自分から自分に向けた自分像としての自分というのもまあ憧れ、とかそういうのはこの自分でしょう。二つの自分が集まってもなお測りきれない自分というのも他者という連関に入ってはじめて測りきれないほどの自分を発見するのだから正解として良いでしょう。
自分って何か。
というのは、このような三つの自分について考えることで、ふと稲妻が走るように思いつくようなものなのかもしれません。
まあ、それは人それぞれでいいと思いますし、結果的に人それぞれになると思います。
それが「本当の自分」?なのかもしれませんね。
そんな辛抱強い人は「本当の自分」なんて言わないと思いますが。