引き算の文化

マイナス。
この言葉の表面はカチカチに冷えている。
こんな言葉のどこに文化があるのだろう。ハートウォーミングな文化いくらでもあるが、マイナス、そんなクールな文化はあるのだろうか。
僕はそんな疑問を抱えたことがある。それはいつもではない。微妙に幸せな時、そいつは耳元でこんな呟きをしているのだ。
嫌味なやつだが、間違っているとは思えない。
僕はマイナスの文化というものがまずわからない。何も思いつかない。
マイナスというのはどうしてもプラスの反対として考えられてしまう。けれど、四則演算の四つが相対的なものではなく絶対的なものであるように、それは絶対的なものである。

イメージは間違わず、配置だけが間違える。


そんなことは往々にしてある。人間は生きていくうちに自分のイメージの中に全てが含有されていることをいつの間にか忘れてしまう。それが成長と呼ばれるものである時もある。

マイナスの文化はその冷え切り具合が強すぎてむしろ熱く感じさせているというのが僕の考えである。
でも、その具体例が全くといって思いつかない。直感はいつでも僕たちを導く。それが迷路でも出口でも入り口でもそうだ。
マイナスの文化をかけるほど、僕は引き算の属性の人間ではないのかもしれない。
四則演算というのは、計算方法のように思われているが、その側面だけで捉えるのはあまりに浅い考えだと言わざるを得ないような気がする。
それぞれを深く考えると、それだけで一つの答えが出るような気がする。でも、なぜか気が進まない。その一つ一つが四天王の品格を持つからだ。なんとなく、自分のようなものが取り扱えるようなものではないような気がしてしまう。自分の下賤さを突きつけられるような気がしてしまう。そんな高尚さがこの四つの演算方法にはある。
引き算の文化。足し算の文化。掛け算の文化。割り算の文化。どれも、あるのはわかるが何かはわからない。そもそも、それらにまたがるものが文化というものなのかもしれない。
混沌の中に放り込む。四則演算という文化は引き算の文化なのかもしれない。自分が引かれて、文化だけが残る。そんなに嬉しいことなのか、僕にはわからないが、引き算の人間にとってそれは優越感に浸れるような素晴らしい文化なのだろう。

マイナス。


意外と人間らしいその文化に僕は自分の存在の不確かさをかけてプラスにしているような気がする。ポジティブとネガティブはそんな人間の性質の話なのではないか。
引き算の文化があることで、僕たちはいつの間にか、ネガティブでいることを許されている。そんな文化性が引き算の文化にはある。許しの文化。それが引き算の文化であるような気がしている。

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