Twitter的アフォリズム
お腹が痛くて眠れない。何かの間違いで寝るのを待つしかない。
友人に「彼氏が五ヶ月のあいだ『好きかわからない』って言ってくるのにキスはしてくるんですけど!」と言われた。「そんなん性欲処理に使ってるだけだと思われても仕方ないですよね!」と言われた。そういうものなのだろうか。一緒に考えたかったのだがその日はなぜか体調が悪くて早く帰ってしまった。
「欲望を処理する」という言い方は欲望が無限であるとは思っていないから可能である。しかし、欲望には無限であるところと有限であるところがあり、それによって人は生きているのではないだろうか。
「性欲処理」という言い方がなされることがたまにあるが、なぜ「性欲」の無限性、もっと言えば賦活性を取り上げないのだろうか。取り上げたとしても「男の優しさはすべて性欲に由来する。」というこれまたデタラメな言い方しかなされないのだろうか。
「AはすべてBに由来する」というのは言い換えれば「Aが起こったなら"確実に"その前にBが起こっている」ということであろう。しかし、いま起こっているのはAだけであり、Bはその原因として措定されたにすぎない事柄である。しかもBが目に見えないもの、例えば欲望であったとするならば、「原因として措定されたにすぎない」ということはもっと強調されてよいのではないだろうか。
そうか。あの友人の言っていたことは「彼氏に『好き』って言ってほしい。好きじゃないなら『好きじゃない』って言ってほしい。」ってことだったのか。本当は「性欲(処理)」の話など瑣末な問題だったのである。
そもそも性欲とはなんなのだろうか。どのように生じるかとか、典型的な行動にはどんなものがあるかとか、そういうことではなく、欲望のうちの性欲というものがなんなのかを知りたい。いや、ちょっと違うかもしれない。欲望について知りたいのかもしれない。そもそも。
私は恋愛に関する本を読むのが好きである。恋愛に関する詩歌の本や恋愛に関する考察の本、恋愛に関する理論の本、それらを読むのが好きである。そして、それはおそらく私が普通の恋愛や普通の性欲みたいなものについてよく知らないからである。いつも微かな違和感を感じているからである。
私は恋バナにあまり興味がない。興味があるとすれば、それぞれの人の「心の穴」(©️二村ヒトシ)に興味がある。性欲に興味があるのではなく、性欲の形に興味があるのである。しかし性癖に興味があるわけではない。性癖を構築したものに興味があるのである。いや、構築させたものに興味があるのである。
部屋の中で偽物の月ばかり見ている。
透ける天井というモチーフ。
出来事というのは恐ろしい。真の出来事は無から起こる、もしくは無が影のようにどこまでもついてくるからである。それゆえに私たちは欲望を作り、引用を行い、元ネタを示すのである。
「真の」とか「本当の」とか、そういう言葉をたくさん使うやつは信用ならない。本当に。
三大欲求って変だよなあ。ただその変さが何に由来するのかはよくわからない。
三大欲求自体は勝手にすればいいが、それを「人間の三大欲求」と呼び、それぞれの欲求があることを示す行動を典型的に考えすぎてしまうのならば、それはやめていただきたい。ときもある。
睡眠欲とか食欲とかってなんか違和感ありません?性欲にももちろん違和感があるんですけどそれとは違った違和感が。
寝たいから寝ているんでしょうか。食べたいから食べているんでしょうか。情交を結びたいから情交を結ぶんでしょうか。どれも変ですが、どういうふうに変なのかがよくわかりません。
たまに思い出します。『夜明けのすべて』である人がPMSを持つ人に「PMSを理由にできて楽なときもあるでしょ?」みたいなことを言っていたことを。そしてその和やかさというか、肯定感というか、そういうものを。私は数日前のお風呂で「なんか、人間臭さを認めないっていう差別をしていないな。」みたいに思いました。結構前に見た映画ですが。
ある時期私は映画館に入り浸っていた。特に観る映画も決めずに行き、特に観たいものがなければその映画館があるショッピングモールの本屋さんに行く、みたいなことをほぼ毎日繰り返していた。ほとんど何も覚えていない。観た映画のことを。
あることがふいに思い出される。軽く解釈をかける。なぜいま思い出したのか?と問うことはしない。それが大事ならそもそもはじめからわかっているからである。「ああ、こういうふうに関係あるんだな。」と。
いろいろと哲学を勉強するということはいろいろと重みづけの仕方を知るということである。例えば私は最近ベルクソン、というより『世界は時間でできている』を読んでいるので「マルチスケール」によって考えることが多い。そこの部分の筋トレが行われているのである。
筋肉にもいろいろ種類があると思うが、哲学によって鍛えられる思考力(曖昧すぎる)にもいろいろ種類がある。例えば、私の最近の筋トレでいえば『世界は時間でできている』だと「マルチスケール」、『アメリカ紀行』だと「知覚境」、などなどが鍛えられている。これらをもっと大きな所に位置付けることもでき、前者は例えばクオリア論に、後者は例えば思考論に属していると考えることができる。ただ、筋トレと少し違うのは筋肉のように明確に構造化されてはいないということである。
薄暗〜い部屋で鏡のなかの自分を見るのはこわい。私は。ぞっとする。もしかすると明るい部屋のほうが怖い人もいるかもしれない。
寝れそうになったので一旦寝てみようと思う。