30歳になったら、死のうと思っていた

あまりに衝動のままに書き連ねているので、うまくまとまりません。

2020,7/18 そこそこ好きだった俳優が自殺した。
享年30歳。
彼はどんな気持ちで旅立っていったのだろう。

悲しいニュースを見るのは初めてではなかった。
芸能人やアイドルが自殺するニュースが特別珍しいことではなくなってしまった時代。
流行りや芸能に疎い私ですら「え、あの人が?」と思い浮かべられるくらいの、知名度の高い人気者だった彼ら、彼女ら。
強すぎる光は影を消してしまう。でもその光からわずかに漏れ出来た影の色の濃さは、どんな闇より深かったのかもしれない。

そんなニュースを見るたびに、一方的に顔や活動を知っている私ですら衝撃を受けるのだから、そのファンたちには一体どれほどの稲妻が走ったことだったろう。

だから驚いた。

飽き性で一途に熱心に追いかけ続けた芸能人の類がいなかった私の、それでもなんとなくずっと好きだった俳優。
その彼が 自殺した。


私はあまりテレビ自体見なくて、それでも彼にまつわる浮いた噂も悪い噂も聞いたことがなかった。知らなかっただけかもしれないけれど。
私は彼の熱心なファンなどではなく、ただその演技や幅広く活躍する姿に好感を持っていた。俳優として好きな人だった。

SNSを巡っていた矢先、飛び込んできた「死亡」の文字と彼の名前と写真。
あまりになんの前触れもなさすぎて、彼=死が結びつかなくて、嘘でしょう?と、信じられなかった。

あまりに驚いて、新しい役か映画か何かの情報?とすら考えた。でもそれは嘘ではなかった。仕事にこない彼を自宅まで迎えに行った人が、首を吊って死んでいる彼を発見したのだと。

人の死、というのは、逝く者も残された者もとてつもなく生命のエネルギーを使う。特に誰かの命の終わる瞬間を見届けたことがある人は、それを体感すると思う。
次々と流れてくる訃報を目に入れて、電源を落とした。すっと静かに目も耳も遮断した。考えても答えは出てこないし、そもそも何をどうすることもできないことは分かっていたが、それでもどうしても考えたかった。彼が死を選んだことを。そして祖母の最期を思い出していた。

祖母は、私がこの世で最愛の、一番信頼していた人だった。人を好きにならなくて、信用もしなくて、生きるのが下手で難しい私が唯一本当に心から愛し、愛されていたと感じた人だった。
祖母は私だけではなく、本当にたくさんの人に愛されていた。その祖母が重い病にかかったと知ったとき、私は泣いた。信じていない神に都合よく願った。どうか祖母の病気を私にください、私が生きているより、祖母が長生きした方が喜ぶ人が多いからと。

祖母が闘病生活を始め食欲も元気もなくなっていったある日、見舞いに行った叔母から「今日はご飯を残さず全部食べた」と聞いて、私はひどく落ち込んだ。そして悟った。祖母はもう長くないと。
良いニュースだったはずのその報告は、真偽はどうあれ、「亡くなる前に人は一度だけ食欲と元気が戻り、まもなく天に召される準備をする」と何かで知った私には悲しいものだった。
実際、それから間もなくして祖母は亡くなった。

それでも祖母にとっては幸せな最期だったと思う。たくさんの親族に見守られて、苦しまず、文字通り眠るように天国へ旅立った。


人の命の終わりの一番よい形だった。きっと。


そして一人の命が終わっても、その周りの人生は続いていく。変わらずに。それを痛感した。
人が亡くなるには惜しいほどの快晴でも、悲しみにくれた顔で病院から出てきた私たちなど御構い無しに、世界は普通にいつも通りでそこにあった。


彼がどうして死んだのか、その理由は分からない。色々な憶測や情報があって、何が正しくて間違っているのかも分からない。
私たちから見た彼は華やかで、でもその心のうちは全く違っていたのだろう。
ただ私にとっては、理由が何かよりも、その結果に死を選んだことが苦しいと思った。逃げたり叫んだりだとか、彼はそれもしなかった。もしかしたら彼はこの世界が嫌になったのではなく、この世界でうまく息ができなくなった自分が嫌になって死んでしまったのかもしれない。

わからない。死人に口なしとも言う。私如きが彼の何を分かっているなんて、何も分かってはいない。だから「かもしれない」なんて言うこと自体、お門違いというか、そんな資格はないってことは分かっている。

じゃあどうしてこんなに彼の「死」に思考が囚われてしまっているかと言えば、タイトル通り、私は30歳になったら死のうと思っているからに他ならない。

ただこれは、こんな話題の最中に持ち出すには不謹慎だとかセンシティブだとかなんだかんだとか思う人もいるかと思うけど、実際そんな重い話ではなく。本当に死ぬのかどうかは別として、単なる私の心持ちの話である。

ここでの私はひどくネガティヴで、気難しく、生きるのが下手な人間であると曝け出しているけれど、実際「自分の外の世界」ではそんな素振りは微塵も出していない。ポジティブで好かれる人格を演じているにも近い。その方が素を出すよりもはるかに社会で生きていきやすいと学んだからだ。
けれどやっぱり「外の自分」と「本来の自分」には大きく差があって、割り切っていたはずなのにいつからか疲れてきて。

「こうやって暗い自分を隠して繕っていかないと生きていけないなんて、なんて人間に不向きなんだろう。疲れた。息をするのをやめたい」と毎晩泣くことがやめられなくなったときに「せめて30歳までは生きよう。その後のことはまた考えよう。死ぬのもアリだ、30歳になったら生きるのをやめてもいいと思ったら、ゴールが見えたようで頑張れる気がする。一区切りつけよう」と思い至った。

あなたの周りにもきっと普通にいる、平凡で朗らかでいつも変わらない人。

ただあなたがそう見えてるだけで、そう見せられているだけで、心の中は私のような人もたくさんいるはず。

彼もそうだったかもしれない。

今回彼の死によって実感したのは、自殺をして後悔するのは近くにいた人たちだということ。

「話をもっと聞けばよかった」「悔しい」「どうして」
彼と繋がりを持っていた人々はそう口を揃えた。

もし自分が自殺した人の身近な存在だったら。私もそう思うに違いない。抱えた思いに気付けず、手を差し伸べることが出来なかったら、もっとこうすれば、ああすればと自責の念にかられるだろう。

ただ、それで救われることもあれば、どんなに手を尽くしてもどうしようもなく覆せない結末だったかもしれない。
もちろん、救える未来を想像して行動した方が良いに決まってる。それでも死を選択する者もいるだろう。でもそれは、自殺という選択を覆せなかった誰かや何かが悪いのでは決してない。

もし誰かの苦しみのサインに気がついて、たくさんの思いつく限りの手を尽くし、励まし寄り添い「助けることが出来た」と思っても、
「最後まで優しくしてくれてありがとう。嬉しかったよ。さようなら」と残して笑顔で目の前からいなくなられたとしたら、そのとき自分は、救えたと思うことが出来るんだろうか。

救いってなんだろう。命をこの世に繋ぎ止めるのだけが救いなんだろうか。
親しい人が自ら死ぬのは嫌だし切ないけど、同時に、苦しんで悲しみながらまで生きていて欲しいとも正直思えない。私がそうだから。

「私が、僕が、いなくなって悲しむ人なんていない」と思わないで!と言う人がいるけれど、多分そういうことじゃない。
自分が死んで悲しむ人のことを考えられなくなるほど、生きるほうがずっとつらいんだ。その人にとって。

私は、この世界で生きていくことが苦しかったのなら、せめて死ぬときは「もう無理に生きる必要がなくなる」と思ってくれたらまだ幸せなのにと思ってしまう。


これだけ語っておきながら、私は30歳になったら死のうと考えているような人間で。
でも彼の死で、少し何かが揺らいでいる部分がある。


多くの人にとって悲しい最期だった。本当に。でも彼の選んだことが間違いだとも思いたくないし、それを判定することも野暮で、起きてしまったことは取り消すことが出来ない。ただひたすらに受け止めて向き合うしかない。

命を絶つその前に、抱きしめることが出来たら良かったのにと思った。彼を止めることはできないとしても、その命がたしかにここにあったんだと感じて、彼にも自分がここに存在していたんだと思ってもらいたかった。でもそんなの私じゃなくても彼の友人、家族、ファン、誰もがそうしたかったと願うだろう。

あなたはどんな気持ちで旅立ったの。
どうかどうか、真面目で誠実であっただろう彼が、押し込めていた誰にも見せられなかった苦しみをようやく自分で解放出来たんだとしたら。
その方法がこれしかなかったとしたら。
あまりに暗く悲しい結末であっても、彼が天に迎えられる瞬間に思ったことが「苦しみからの解放」であったのなら まだ、まだ少しだけ勝手すぎるけど これでよかったのだとは到底思えなくても……


なんの曇りもない光で満たされた世界で、どうか安らかな眠りを。


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