にわか恐怖症は克服すべき
詳しくないと「好き」と書くことができない。日常会話の中でさらっと「あれハマってるんだよね」とかは言えるのに。
つまり対象への情報量の多さが「好き」に求められる、と思い込んでいた。角度を変えれば、「にわかは許さねえ」という感覚が自分の中にあるということでもあって、「なんてこったい」と自分に対してショックを受ける。でも確かに、「にわかじゃん」と揶揄されることが怖い自分がいるのだ。
「にわか」とは「物事が急に起こるさま」「突然」、ほかにも「一時的であるさま」という意味がある。これに名詞がくっつくと、その名詞が「にわか」の状態になる。たとえば、「にわかファン」とは「突然のファン」「一時的なファン」と言い換えることができる。
にわか(だと思われるかも、と考えてしまうこと)への恐怖心は、要はそういうのを嫌がる人や言葉を目撃し、体験したこともあるからだ。知ってしまってもいるから、自分の中に引っかかっている。
けどそうやって考えてみると、「これはおかしいよね……」とも思う。
さっき情報量が多いことが好き、と書いたけど本当は逆だ。情報量が少ないけどなんか好き、と言うことだってある。たった一つの側面に心酔することだってある。情報量が多いことは、あくまでも「好き」の在り方の種類のうちの一つだ。
わたしは、「自分だけが知っていたい」と「みんなに知ってほしい!」という軸があったとしたら、そこをしょっちゅう行ったり来たりする存在が「推し」だと思っている。
自分だけが知っていたい、というのは独占欲ともいえる。その気持ちもすごくわかるけど、だからって「(にわか)ファンが増えること」を迎合できなければヘタするとその推しは衰退の一途をたどるばかりになってしまう。
にわかだろうとそうじゃなかろうと、「好き」の色々な在り方を否定する思考回路にはなりたくな
いし、気をつけたいな、と思う。にわかを恐れる必要なんて、全くないのだ。「好き」はいくらだって表現していいし、かといって無理に場に出す必要もない。
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