優しい本を読む

優しい物語が好きで、未だにミヒャエル・エンデを良く読む。
 ミヒャエル・エンデの作品の大半は子供向けに作られた様な物語で、内容はとても優しかったり、色んな事に気づかせてくれたりする。
そして何よりも面白い。

最近は村上春樹の小説をデビュー作から辿るように読んでいるが、その合間にミヒャエル・エンデの短編集を寝る前に読んだりする。

通勤中や、公園で黄昏たい時は村上春樹。
寝る前にはミヒャエル・エンデ。

そんな感じに同時進行して楽しむ。

小説というのはとても精神的に良い影響を及ぼす。読み終わった後も、外の風景の情景や、自分の今の気持ち、今の自分の行動等を頭の中で物語にして楽しんだりするのがとても良い。

自分がそういう優しい小説が好きなのは、恐らく自分が邪悪な存在だからなのだと思う。

邪悪であるが故に頭の中では常に妬みや恨みの言葉が渦巻いていて、常に『自分さえ良ければいいのだ』と考えているのだ。
邪悪な傾向に進む哲学が基盤になってしまっているからこそ、優しい考えや平和的な解決方法を優しい物語から吸収しているに過ぎない。

私は優しい人になりたい、なってみたいから、読むのだ。

私は以前までは優しい人だったと思う。皆が笑顔になる事が凄く好きだった。しかし、それを行うと必ずその笑顔が原因で不和が発生してしまう。
人は今まで敵だと思っていた人が敵では無いと理解した時や、今現在の優しさが当たり前になってしまった時、新しい敵を探すのだ。

そうして敵にされては去り、敵にされては去り、を繰り返しているうちに、私はどんどん邪悪な哲学に辿り着いてしまった様に思う。

だからこそ、優しい本を読む。

私が悪に手を染めて、警察の留置場で40日間過ごした際、その長い時間を有意義に過ごさせてくれたのは、同じ留置場の牢屋に入れられた人では無く、警察でも無く、小説だった。

留置場には図書があり、1日3冊まで借りる事が出来る。
私は毎日小説を読み漁った。同室の犯罪者が『本ばっかり読んで気持ち悪いんだよ!』と文句を言い出し殴り合い寸前で看守に止められる事もあった。

 留置場には初犯の人はあまり居ない。大半が前科があったり何かしら問題をおこして来た人しか居ない。たまに『留置場を出た後、連絡をくれれば助けてあげるよ』と語る人も居たが、結局その人ですら、頼ってきた人をカモにして騙す事を考えている。

留置場で一緒に『この機会を大切にして、一緒にここから生まれ変わってやり直そう!』と誓った人ですら、再開した時には金髪になっていて、借金を無心してくる。

尽く救いの無い世界で唯一救いの糸を垂らしてくれたのは人では無く小説だった。

前科のあるかつての友人に『留置場で一番良かったのは本という素晴らしいものに出会えた事だ』と語った事もある。
その友人は『本を読むと捕まっていた時の事を思い出すから小説は読みたくない』と答え、未だに新たな犯罪に手を染めており、自然と去って行った。

自分は生まれ変わる事を誓い、あの留置場の事をけっして忘れないように小説を読む。

良い本さえあれば、それを読み続けていれば、善良になれる気がしている。

それが僅かであったとしても、あの時、クズしか居ない世界に降りてきた一本の蜘蛛の糸から自分は手を離さない。

幸いな事に、この蜘蛛の糸には誰も登りたがらない。
『ここに蜘蛛の糸があるよ』と語っても、その蜘蛛の糸が見えているのは自分だけの様だ。

自分は蜘蛛の糸を登るように一文字一文字、1枚、1枚、ページをめくる。

邪悪な存在である自分にとって、地獄の餓鬼である自分にとっては、これまで地獄に存在しなかった、蜘蛛の糸そのものに天国を感じるのだ。

恐らく今後もそうやって登り続けるのだろう。

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