コンテンツ全部見男

 日テレの新番組『犬も食わない』がどうかと思うくらい面白い。世の中にある二つの価値観を代表する人物をキャラクター化し、ドラマ内でディベートさせるという趣向の番組だ。
 今回はチョコレートプラネット長田さん演じる「コンテンツ全部見男」vsさらば青春の光・東ブクロさん演じる「情報だけ知ってる男」。それぞれの口から出るエンタメ周りの固有名詞の絶妙さにニヤニヤしていたら、一緒に観ていた友人が「これお前じゃん」と呟いた。「全部見男」は都内の舞台を梯子し、映画館に入るギリギリまでカフェにいて、スマホで別のドラマか何かを観ている。自分は座っていると眠くなってしまうので舞台はかなり体調の良い日に1本観るだけだ。ケチな性格なので、1時間以上いられてかつ何かまとまった宿題作業を抱えている時にしかカフェにも入れない。どちらかと言えば、隙間時間を使って「全部見」できる彼を羨ましく思っていた私は急に恥ずかしくなり「こんなに見てねえよ笑」と濁してテレ朝にチャンネルを変えた。ハナコさんたちが『東京らふストーリー』という番組のコンセプトに乗っけて、自身の持ちネタをユニットコントに広げて披露していた。
 一人になってからTVerで『犬も食わない』を見直した。「全部見男」は、とにかくいろんなコンテンツの名前を知っているし、どうやらエンタメ界の大局も捉えているようだ。確かに自分も映画や文学やラジオの話をするのは大好きだし、宇野惟正も町山智浩も指南役のTwitterもフォローしてるし『問わず語りの松之丞』にもハマっている。浴びるほどのコンテンツが溢れていて追う時間が足りない、というのも「全部見男」に同意だ。人との会話もエンタメの話しかできない。でも、自分は本当に周囲からこう見えているのだろうか。
 「全部見男」の口から出る言葉は熱いが、それが何かの作品の細部を照らすことはない。何かを誉める無難な言葉しか出てこない。むしろ、東ブクロさん演じる「情報だけ知ってる男」の言葉の方が聞く人の食指を刺激する。「知ってる男」はSNS上の字面やヴィレヴァンのPOPを追いまくることで、コンテンツそのものを見ずに知ったかぶりをする男だ。

 自分はかつて確かに、「全部見男」に憧れていた。テレビや漫画を禁止される「コンテンツ全部封じ家庭」で育った私のほとんど唯一の情報源はラジオだった。町山智浩さんや宇多丸さんや菊池成孔さんの喋りを録音して繰り返し聴き、自分の知らない面白いものを沢山知っている彼らに憧れた。伊集院さんや爆笑問題さんといったラジオの入り口にいたお笑いの人たちも、面白コンテンツの話をたくさんしてくれる大人だった。高校では友人から宇野常寛さんや宮台真司さん(全部にさん付けしてったらキリがなくなった)の本を借りて読み漁った。大学に入って「面白コンテンツ鎖国」を解かれた私は、砂漠の砂が水を吸うようにエンタメに耽溺した。バイト代は全て映画に注ぎ込み、交通費を節約するために使い慣れないスマホでradikoを開いてどこまでも歩いた。金がないので飲み会も行かず、何時間も立ち読みして罪滅ぼしのように文庫本を1冊買って帰る客だったので、書店員の間では確実に渾名がついていただろう。そんな日々の中で大槻ケンヂの『サブカルで食う』という新書に出逢った。忘れもしない、渋谷の桜ヶ丘下の書店の奥の本棚で。「『プロのお客さん』になってはいけない」という一節に衝撃を受けた。

色々な本や映画、ライブ、お笑い、演劇を見ているうちに、それを受容することばかりに心地よさを感じてしまって、観る側のプロみたいになってしまうことってよくあるんです。
 だからといって、批評、評論の目を養うわけではなく、それこそツィッターやミクシーに「今日はそこそこよかったなう」とかつぶやくだけで満足してしまう。それでいてチケットの取り方だけは異常に詳しい……みたいな。そういうのを「プロのお客さん」というんです。
 色んなライブを観ました、色んな映画を観ました、でも「じゃあその結果、君はどうしたの?」と聞かれると「え? いっぱい観たんですけど……何か?」で終わっちゃう。もちろん、そういう生き方もあると思いますけど、自分も表現活動をこれからしていこうというサブルなくん、サブルなちゃん(大島注:大槻の造語)は、プロのお客さんになっちゃいけませんよ。
 映画を何本観た、本を何冊読んだ、サブカルになりたいならばその結果、受容したものを換骨奪胎し、自分なりの表現としてアウトプットすることが重要です。それが稚拙であろうとクオリティが低かろうと、まずは自分で何かを表現してみるということが第一歩ですから、もう一度言いますね。プロのお客さんになってはダメです。

(『サブカルで食う 就職せず好きなことだけやって生きていく方法』角川文庫 )

「最悪だ」と思った。観る側として出遅れたばかりか、観る側のまま一生を終えるのか、そんなの最悪だ、と。そこから6年、どう考えても人から愛される才能を欠いた自分が人前で自分をコンテンツにしようと何とか頑張ってきたのは『プロのお客さん』で終わりたくないという思いがあったからだ。「全部見男」は「プロのお客さん」の代表だ。私はオーケンの言葉に出会うまで、自分が憧れていた大人たちとそれの区別がついていなかった。「全部見男」は私にとって、かつて憧れたが、今はそれだけではダメなことの反面教師だ。(長田さん演じる彼はHPデザイナーを生業としているので、もしかしたら観たもの聞いたものを換骨奪胎してアウトプットできているかもしれないが)。他方で、「情報だけ知ってる男」への羨ましさもある。正直、奇跡のコンテンツに出会うための辛抱の時間というのは我々のような者にとっても地獄である。その時間があるからこそ、名作に向ける感性も研がれるとわかっていながら、観ずに語れたらいいのにと思う日も、何かの拍子に観ていないものを観た体で語ってしまうこともある。
 思えば、この『犬も食わない』という番組内のマッチメイクはいずれも、誰もの心の中にある二つの憧れを具現化したものだ。オードリー春日さん演じるベテラン芸人「古井ひでお」は、半端にYoutube市場に進出して、四千頭身演じるほとんど素の彼らまんまのYoutuber「スリーサウザンド」に完敗するが、MCの水卜アナは「芸人さんが好きなので古井さんを応援します」とコメントする。長井短さん演じる「地味ハロウィン女子」は結局メジャーハロウィン文化に服属するが、「これは『はじめてハロウィンに参加する女子』の仮装です」と粘れる彼女の強かさは、またいつか浅薄な流行に反旗を翻す予感を残す。

 いっとき、人間の一面を悪意的に誇張して再現するコント番組が流行った。もちろんそういった、ヤバいやつを「ヤバいやつ」と嘲笑う番組も最高なのだけど、『犬も食わない』の「ヤバいやつ」を引き寄せて理解するアプローチは新鮮だ。人を引き寄せて理解するのは疲れるし、コスパが悪い。『犬も』のドラマパートはディテールの大喜利に何百時間かけているんだろうと思う再現度だ。キャラへの愛とかそんな生易しいものじゃない。膨大なインプットを経て「プロのお客さん」を卒業した人たちが結集したらこんな物ができてしまうということだろうか。


 とかなんとか「プロのお客さん」まっしぐらの文章をだらだら書いてしまったんで、『犬も食わない』に影響を受けたネタ1本書いて寝ます。
 めっちゃパクリになりそうだけど。

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大島育宙
文章を書くと肩が凝る。肩が凝ると血流が遅れる。血流が遅れると脳が遅れる。脳が遅れると文字も遅れる。そんな時に、整体かサウナに行ければ、全てが加速する。