『カメラを止めるな!』と『ブリグズビー・ベア』の弱点からモチベーション格差を考える。
小説家についての小説が面白いように、
マンガ家についてのマンガが面白いように、
映画製作についての映画は面白い。
最近観た映画で立て続いた、『カメラを止めるな!』と『ブリグズビー・ベア』。
どちらも1人の男が映画の完成に向けて周囲の人を巻き込みながら奮闘する話だ。
私自身はネタバレ警察が大嫌いだし、ネタバレされた上で映画を観て感動が薄れた経験なんてない。何なら詳しい人の解説をある程度聴いてから映画を観たい口なのだけど、ネタバレ警察やネタバレ警察信者の方が声が大きい世の中なので阿ることにする。
『『※※以下、ネタバレ注意!!※※』』
2つの作品が共通して観る者の胸を打つのは、言わずもがな、映画製作へのモチベーションが周囲に感染していくメカニズムだ。
『カメラを止めるな!』では実現不可能に思われたプロジェクトを遂行する監督の意地が将棋倒し式に奇跡を起こし、それが当初は自己顕示や保身に向かっていたプロジェクトメンバーのモチベーションを『創作の達成』に集約して行く。
『ブリグズビー・ベア』は、幼時から誘拐犯に見せられてきた架空の番組に取り憑かれてしまった主人公が、自らその続編製作に乗り出すというはちゃめちゃストーリー。(本当に面白いので気になる人は観てください!)彼の動機は究極に個人的なのだが、その熱量が次第に周りに感染し、多くの人を巻き込んで行く。
2つの映画についてよく指摘される弱点も共通している。
「うまくいきすぎ」
「ご都合主義的」
「悪い人が出て来なさすぎ」
2作品とも感涙で滂沱だったので到底冷静には観られてないのだけど、(自分はテレビのバラエティ番組禁止、マンガ禁止などエンタメを剥奪する方針の家庭で育ったので、『ブリグズビー…』の彼への感情移入は当然のこと、『カメラを…』において娘が映像制作の道に進むことを両親から直球に応援されていることへの羨望たるや、であった。※1)
こういう意見を聞いた時は、なるほどと思った。
『カメラを…』で最も痛快な場面に、主人公が生意気な若手女優とイケメン俳優に、劇中映画の役を借りて鬱憤をぶちまけるくだりがある。現実と虚構がシンクロする瞬間のカタルシス。
ただ、その後のイケメン俳優と女優は素直すぎやしないだろうか。
フリの現実パートであれだけプライド高かった彼らが、監督に劇中の役を借りて怒鳴られたとして、そのまま素直に映画製作に参加するだろうか?
二人はブチ切れて現場から逃げ出したり、ふてくされて無気力な演技をしたりせず、一生懸命に撮影にコミットし続ける。怒鳴られた鬱憤を晴らし返すような見せ場が劇中映画内で用意されている女優はまだしも、イケメンの俳優も彼が最も嫌がりそうな、文字通り「縁の下の力持ち」作業に肉体を呈して参加する。
『ブリグズビー…』はもっと凄い。
終始善人しか登場しない。
主人公を25年間に渡って監禁していた大犯罪者の夫婦でさえ、微笑ましい存在として描かれるし、映画製作の過程で人と衝突すらほとんどしない。しまいには、映画の完成披露上映の反応は、手放しの拍手喝采の嵐だ。
ほとんどの観客は欠点とも思わないのかもしれない。
エンタメに目が肥えた一部の人には気になるポイントかもしれない。
ただ、エンタメに携わる者にとっては、これは意外と「あるある」じゃなかろうか?と思う。
初期衝動を周りに伝えていたら、いつの間にか予想外に大勢の人が協力していて驚く。作業そのものに追われているときはトランス状態(『カメラを…』の主人公・日暮のように)だから気づかないけれど、ひと段落してるふと振り返ってみた時にそれに気づく。自分がいるお笑い芸人の世界でも、はじめて主催ライブをやった芸人が終演後、感極まって涙している姿を何度も見たことがある。
そうなのだ。
モチベーションは正しく発露できればきちんと他の人に波及していく。
言い出しっぺのモチベーションがきちんと他の人に波及するかどうかが、プロジェクトの成否とイコールですらあると私は思う。
だから、何かクリエイティブなイベントやプロジェクトを言い出しっぺとして成し遂げたことがある人は、これら2作品を観て「ご都合主義的」とは思わない。お笑い芸人やミュージシャン、テレビマンといった人たちが『カメラを…』を推しまくっているのも当然。
善人しか登場しないのも至極当然で、プロジェクトが動き始めちゃったらてんてこ舞いで、非協力的な人なんか気にしてる余裕はない。意図的に邪魔する人でも現れない限り、積極的に関わってくれる人のことしか目に入らない。
もちろん、全てのプロジェクトがうまくいくわけじゃない。
『カメラを…』内の『ONE CUT OF THE DEAD』や、劇中映画の『ブリグズビー…』の陰には、頓挫したり不完全な形で世に出てしまったものが五万とあるに決まってる。『カメラを…』の日暮の過去作が現にそうなわけだし、『ブリグズビー…』のジェームズは、文化祭的なノリで初期衝動こそ形にしたけれども、じきに二作目の苦悩や、プロとアマの壁にぶち当たるに決まってる。作品はそれを否定していない。失敗作の死屍累々がある世界だからこそ、作品内映画の成功が奇跡的だし、物語たり得るのだ。
『カメラを…』は一見、機械仕掛けのように前半の粗が綺麗に回収されていく快感が眼目のように思える。でも、それだけじゃない。一つ一つの事故とそのリカバリーが連鎖して、なにか意味ありげなつながりになることはよくある。自分はお笑いライブの企画・運営に携わって7年目になるが、そんなことは日常茶飯事だ。『カメラを止めるな!』みたいなことは実際に「ある」のだ。実感に基づいたストーリーしか人の心を動かせない。
もっと言えば、2作品とも作品内の映画は「大成功」はしていない。
『カメラを…』内の『ONE CUT OF THE DEAD』は、単体の作品としては不出来だからこそ、後半パートで観る者の溜飲が下がるのであり、なんとか生放送を乗り切る、という最低限の目標を達成したに過ぎない。
『ブリグズビー…』内の『ブリグズビー…』も、身内を集めて満足させる、という目標を達成しただけだ。
映画内の映画や音楽、マンガ内のマンガというのは取扱注意で、「大ヒットした!」というわかりやすい設定が「どう見ても大ヒットしないでしょ」という観る者の心内ツッコミを引き起こしノイズになることが多い。その点、『カメラを…』と『ブリグズビー…』は、名作を撮るというような大逸れた漠然とした目標ではなく、目先のプロジェクトの成功に最低ラインが敷かれているので、リアルなのだと思う。一つ一つの目先の成功を積み重ねるしか、好きなことで成長する方法はないのだから。
芸人をやっていても痛いほど感じる。
結果は才能の差ではなく、モチベーションの差だ。
自分はやる気があると思い込んでいる人でも、それは多くの場合どこかで見聞きした受け売りのやる気だし、たいていその発露も自己満足なので協力者は増えていかない。
本当にモチベーションのある人はその発露・表現が間違っていた時はお客さんや関係者の意見を取り入れてすぐに直して、どんどん多くの人に応援されるようになる。
芸能界の端っこに出入りするようになって1年半、いろんな役得が重なって、芸歴の割には多くの芸人さんを間近で見てきた。いま世に出ているかどうかは関係なく、モチベーションのある人はいつ会っても、前回会ったときより面白くなっている。
『ブリグズビー…』のジェームズのモチベーション以上に純粋な創作衝動はありえない。
彼の25年間の半生で触れた唯一のエンタメが架空のものだったとわかって、諦めるのではなく続編制作に乗り出す。
『カメラを…』の日暮だって、自分も妻もエンタメでの成功を夢見て鳴かず飛ばずなのに、自分と同業を選ぶ娘を応援している。
クリエイターの創作衝動・動機(※2)をこれほど尊く、かつリアルに描いた映画はとても貴重で価値があると思う。それと同時に、圧倒的成功に未到達のクリエイターは、もちろん自分も含め、現実にいるであろう日暮やジェームズのようなモチベーションお化けと渡り合えるくらいに、自分の魂が燃えているか自問しなければいけない。
上質な2つの映画がそれぞれヒットしたり話題になっていることが本当に喜ばしくて、長い長い記事を書いてしまいました。最後まで読めた方は是非サポートお願いします。次の記事を書く映画代に充てます!
※1 この話は別の機会にゆっくり書きます。
※2 モチベーションという言葉を多用しすぎて自己啓発本みたいで恥ずかしくなってきたので言い換えた。