月9夏ドラマ、この後どうすんの問題。「海のはじまり」論〜第一話〜
「海のはじまり」が始まった。
「海」を生命と死の象徴として使う気満々の第一話だった。
海を「夏だ!恋だ!水着だ!青春だ!」と消費する夏ドラマへの宣戦布告、いや、鎮魂歌のような高らかな初回だった。
異性愛者が性的に愛し合うことは、生殖と妊娠と出産と地続きだ。
爽やかでテンションが上がるアイテムとしてテレビドラマが使い慣れてきた「恋」という小道具。その先の妊娠、出産が予期するタイミングではなく訪れ、そして予期より早いタイミングで母(古川琴音)が他界する。もっと遅いタイミングで父(目黒蓮)は自分が父であることを知る。タイミング悪く、結婚を意識する時期の恋人(有村架純)もいる。
あらゆるタイミングが合わないことがこのドラマのセットアップだ。
母(古川琴音)は口を滑らせ、妊娠を「事故」と言って即座に取り消す。
2話予告でも祖母(大竹しのぶ)の口から「事故」という言葉が飛び出す。
「タイミング」も「事故」も勝手な話だ、
というムードがこのドラマには流れる。
異性愛者同士が恋をして、
セックスをして、
結婚して、
セックスをして、
妊娠して、
出産して、
そして子より先に親が死ぬ。
マジョリティが想定するこうした命の手順が、
自然にある生命の定義を何ら描けていないことを初回から示す。
どんなにタイミングを想定しても、妊娠と出産と死は最後、必ず偶然に訪れる。全ての生命は偶然の産物である、という前提から飛び出したのが「事故」という言葉ではないか。
祖母(大竹しのぶ)は生物学的に妊娠に無責任でいられる男性という種を責め諦めるような言葉を投げかける。命の始まりに対しての男女の責任のアンバランスを、看護師・助産師として働いていた脚本家・生方美久が描く。
ここまで続柄を、最年少キャラクターの海(泉谷星奈)に合わせて書いてきた。『silent』が徹底して一対一の関係を描き、『いちばんすきな花』が多対多を描いてきて、今度は「多対一」かな、と思う。子供の命に対して大人たちが持てる責任の所在を巡る問いかけが、夏を覆う。
海を鮮やかな青ではなく、灰色っぽく撮っている。
文学でも映画でも、海は生命の誕生であり、そして命が還っていく死の象徴でもあり続けた。個々人が痛みや人生をテンプレートから解放されて見つめられるようになった現在、海はただの青春の象徴ではありえなくなった。
これからの夏ドラマ、呑気に海遊びはできるのだろうか。
できなくてもいいと思う。