16万人の内輪ノリ
オードリーのオールナイトニッポンin東京ドーム
目撃者にならせてもらってしまった。
これから当事者や身近な人たちの裏話が供給されて
どんどん記憶も塗り替えていくだろうから
そうなる前に自分の情動を記録する。
前人未到、誰も真似できない、再現性がない、
という称賛と感謝が心を占めそうになるけど、
意外と「ロールモデルができた」という
誰目線かわからない安心もあった。
そういう二つの矛盾する感想が両立した。
この規模でエンタメを越境的に触りながら、
時間を共有してきてくれた人への感謝を届ける、
そんな実現ができる人は
これからもほとんど出てこないだろうけど
でも、
内輪を最大化しながら公に開きすぎない、
その線引きに偉大なるお手本を感じたのでした。
感動や成長物語ムードに流れそうになると
すぐ茶化して引き戻すのは通常運転なんだけど、
エッセイや傾聴の姿勢、テレビの挑戦系の企画などで
お笑いから離れた働きや評価が増えたからこそ、
ホームでは、原点ではふざけ続ける。
感動は届けないから勝手にしてくれ、というノリ。
ずっとふざけてたし、
ずっと内輪ノリしてくれるし、
長いリスナーにも最近のリスナーにも
平等にサービス尽くしだった。
自分の周りの割と新しそうなリスナーさんたちは
ビートたけしさんを本物かと思っていた。
源さんやフワちゃんは言っても最近の歴史だろ!とか
谷口さんやジョーさんでもっと反応しろよ!とか
客席に対して思わなくもなかった老害リスナーだけど、
それでもマックスの盛り上がりポイントが、
どれも平等に届く企画だったのでぐうの音も出ない。
ラジオそのもののパートも、
ラジオそのものでありながら、
目の前で繰り広げられたり映像の補足があった方が
1.5倍くらい面白くなるテーマだったし、
ひろしさんのコーナーではいつも通りの悪ふざけを
超予算で魅せてくれ、
それぞれのピンのコーナーはラジオの文脈と共に
「肉体」と「音楽」という別ジャンルのエンタメを。
そして当たり前に30分余らせた後での漫才では
「歴史」と「感謝」がテーマになる。
コナンのノリもラジオで伏線があった。
自分への感謝はセルフボースティングそのもの。
でもそこでも泣かせず、
なぜか肛門から排泄物として出てくる感謝を
バットにして2人で打つという、
往年の少年向けギャグ漫画の世界観だった。
ブロックとブロックが悪ふざけでつながる。
長尺漫才として洗練され尽くしてて、
引き目に見ると「美し面白い」のに、
近くで見るとあまりに中学生で「汚面白い」、
数百点満点の突き抜けたお笑いでした。
綺麗にブロック分けされてて整理されていて
「今この瞬間に何を楽しむのか」を
見失いようのない誤魔化しがない企画の連打で、
でもぶつ切りではなく全てが「コンビの歴史」と
「精神と肉体」「変わったもの、変わらないもの」
というテーマに帰着する真実性で繋がってた。
オーセンティックだった。
やらされていること、
無理していること、
やりたくないけど求められるからプライドを削ってやること、
そういうエンタメが一個もなかった。ように見えた。
大勢の老若男女が同時に見るから、
「汚面白い」中学生の部室遊びは
排除でも少なめにも調節できたはずだけど、
「これは公共エンタメではない」
「長く時間を一緒に過ごしてきた人たちが、
お金と時間を割いて共有する
あくまでマニアックなエンタメなのだ」
という腹の括り方が深夜ラジオそのものだった。
ネット空間と常時接続してしまって、
深夜ラジオの面白さは増え、減った。
減った面白さを諦める人も増えた。
減った面白さを知らない人も増えた。
減った面白さが現場で唯一無二の形になってた。
マネタイズやお布施や推し文化。
そういうビジネスの文脈での評価を超えて、
誤魔化しなく直球豪速球のエンタメを、
全身全霊で投げれば企画が肉体と繋がる。
創り手とお客さんがお互いを選び合う。
それでいいのだ、それがいいのだ、
そういう意味で規模と関係なく、
これからの時代のみんなの目標みたいだった。
武道館の時よりも
ずっとずっとずっと肩の力が抜けたお2人が、
見てて痛快で癒された。
武道館の時にあった緊張と達成が
見る人を緊張させない作品にまで昇華した気がした。
誇張やポジショントークのつもりを差し引いても
規模によるカタルシスだけではなく
質によるヒーリング効果があった。信じてくれ。
変わり続ける人が悩みながら
変わらない人を操縦する。
変わるものと変わらないもの
変わる者と変わらない者
その掛け算が歴史なんだという体感。
聴いてきた15年間がたったの3時間で
走馬灯のようにタイムラプス再生されるような
でも悪酔いはしないスムーズさで
見やすくて痛快な娯楽は
誰かがわかりやすく整理しているということに
生きてきた中で一番感謝した。