見出し画像

「"ROAD OF LIFE" 道標 (ミチシルベ)」ZxTone動画解説


"ROAD OF LIFE"-道標(ミチシルベ)-  

あわただしい日常
路肩の一時停止標識に促されながら
立ち止まれない人生に矛盾を感じている
今自分は、一息ついているのだろうか
それとも
所詮、喧騒の中に居るのだろうか

ひと気のない、こんな夜明け前の国道で
我が物顔で重低音を轟かせ
いい気に単車を走らせている自身も
世間からすれば、取るに足らない
ただのちっぽけな存在でしかない

生誕も終焉も所詮、迎えるときは独り
それぞれが歩む道も、ひとつとして同じものは無い

単車に乗るという行為は、人生に似ている
コーナーの行く先に、急に現れた分岐路は
目指す場所への近道か、
それとも、行き詰まりへと続く誘惑か

砂の浮いた路肩は滑りやすく
油断すれば足元をすくわれる
しかし時には、
性に合わない道から外れる決断も必要だろう

路面のギャップと苦難に怯え、
陽射しと理不尽に焼かれ、北風と裏切りに凍えても
決して降りようとしない、名も無き単車乗り達よ
心して跨れ!
人生に“居場所”などというものは無い
この道を進む過程が、今走り続けている現実こそが
生きてきた証だ

迷っているなら立ち止まればいい
勇気を得たならスロットルを開けて挑め
そして、己が信じて選んだ道を疾駆する

法規と秩序に守られた、この路上とは違う
これから歩む果てしなき道には、
信号も”道標“(ミチシルベ)も無い

-動画解説です-

Noteへの初めての投稿タイトルもそうなのですが、私には
「単車りとは生きざまだ」という持論があります。

それには、二つの意味がありまして

ひとつ目は
「単車に乗る」というのは、趣味の範疇(はんちゅう)にとどまらず、
「その人物の生きざま」自体を表しているという考え。

中年以降の者の趣味にしては、リスクが大きすぎる。
そして、情熱を持ち続けなければ、
多くの人がそうであるように、一過性のもので終わってしまう。

ですから、もはや
ある程度の割り切りというか、決心というか
覚悟というものが無ければ、
こころの中に”悟り”が無ければ
これから残された人生
「単車に乗る」という行為を、
関西弁で言えば、しんどくてたいそうな、この行為を、
続けていくことが、出来ないだろうという考えです。

ちょっと難しくなっちゃった…

ようは、その人が
残された人生「単車乗りという生き方」を選んだ、ということ。

そして、もうひとつが
今回の動画のテーマ、単車に乗る行為は
その行為自体が、人生と似ているじゃないか
という考えです。

山あり谷あり、進んでいくのは他の乗り物と同じなのですが
まるで、部屋の中にいるような安全な“クルマ“では、
人生そのものを表現する行為にしては、あまりに安易過ぎるのです。

自転車だと、自力ですから
勢い余って、自らのパワーを制御できなくなるようなことが無い。
つまり、やっぱり安全過ぎるのです…
(もちろん良いことなのですが)

バイクのもつパワーは、自らの精神状態を増幅させてしまう


人生とは、自身が調子に乗っているとき、
往々にしてアタマを打ちます。
道から外れたりもしてしまう。
自分が持っている以上の勢い(スピード)が出てしまうこともある。
だから、制御しなければならない。
力を誇示したいという誘惑に、勝ち続けなければならない。

そして、突然のアクシデント(飛び出し、路上のギャップ)に
対応を迫られる。
もし誤れば、積み重ねてきた過程が、
一瞬にして、もろくも崩れ去り(転倒)ます。

そんなところが単車に似ている。

単車とは所詮、ひとり、
スタートも、素晴らしい景色に感動するときも、コケるときも、
所詮、独りなのです。
そこが、車内で同乗者と運命を共有できる“クルマ”とは、
決定的に違う。

「マイウエイ」という映画がありました、
己の道を行く
それがまさに、単車に乗るという行為そのものなのです。
危機に対処し、誘惑に打ち勝ち、パワーを制御し、
そして、己の道を独り走り続ける。

つまり、人生そのものじゃありませんか!

あらゆる障壁を回避するすべを、身に着けていかなければ
独り、走り続けていくことは難しい。
未熟な初心者や、リターンライダーに事故が多いのも、
そういうことでしょう…

さらには、人生には、
事前に危険を知らせてくれる路上表示や、
行き方を教えてくれる道標(ミチシルベ)さえないのです。

単車乗りたちは、知っています
「単車に乗る」という行為は、決して甘いものじゃない。

想像以上に危険で、孤独で、
そして、魅力的なものだということを…。

いいなと思ったら応援しよう!