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茨城百景 牛久沼

茨城県民ならみんな知ってると思うんスけどォ~牛久沼と言えば河童がいる沼ですよね~
え?河童なんて実在するわけねーだろ?
陰キャもうええて笑…

茨城百景については→『結局茨城百景とは何なのか

牛久は子供時代一時期住んでいたので懐かしい場所です。(まぁ牛久沼全域は龍ヶ崎市なんですけどねニチャァ←陰キャもうええて)当然牛久沼もです。
この牛久沼には古来より河童伝説があるんですが自分が小学生の時、ALTの先生が「ガチで牛久沼で河童の写真撮った!!!!」と言ってわざわざ拡大印刷した写真を授業に持ってきたのを思い出します。と言うわけで牛久沼には河童がいます・・・・・・・・

それでですねーさっそく百景一覧表を見たらですね。

茨城百景一覧表 茨城県報版(1950年)
茨城百景一覧表 茨城県HP版(ベースは1950年版)
1966年版茨城百景一覧表

はいはい、媒体でバラバラな奴ね笑
県報版の猟場→金龍寺は改行の都合で、を入れなかっただけだろ!HP版は電子データにする時そのままつなげただろ!1966年版では実際、入れて分離してるし!いやそこで釣場書き忘れるんかい!資料『茨城百景めぐり』には釣り場の事が書いてあるから絶対書き忘れ!(早口)

・・・という訳で複数の一覧表を突き合わせて考察したり資料や包含風景の名称をググって検証を重ねた結果正しい包含風景はこうなります。
①泊﨑 ②大師堂 ③岡見城址 ④小川芋銭の遺蹟 ⑤釣場 ⑥猟場 ⑦金龍寺
あれ・・・これって今回は県報版が正しいって….コト!?

下調べ編

まず茨城百景の選定は1950年で選ばれた景は選定の事情からして大半が戦前に・・・若しくは「から」有名だった観光地多い、かつそれの宣伝という側面が強い事はこちらの記事でも触れてきました。
その上でそーいえば河童伝説以外にもうなぎが有名だったな・・・と思い軽く調べてみると自称ウナ丼発祥の地らしい事が分かりました。この牛久沼のうなぎ産業(?)の歴史的経緯を更に深堀する事で選定当時のイメージを知る事が出来ました。
まずこの牛久沼のうなぎ産業(?)の歴史はかなり長いらしく牛久沼のウナ丼誕生伝説は江戸時代後期の話。つまり少なくともうなぎ自体は江戸時代後期より前から売っていたという事になります。
そしてかなりローカルなネタなんですが昔、水神屋という老舗うなぎ屋兼ホテルが牛久沼の畔にあり東日本大震災をきっかけに営業を終了し廃墟が放置されつい今年解体されたという事がありました。

解体される直前の水神屋

この水神屋は江戸時代から続いていた老舗であり、かつては画家の横山大観や作家の松本清張なども訪れていた。
戦時中の疎開体験を綴った『はるぶな日記』(英美子、白灯社、1953年)にも「沼辺りには、伊勢屋、湖月、水神屋と、昔からの有名な船宿がならんでいる」「馴染みの水神屋で釣舟を借り」と触れられている。また戦前に出版された『工房小閑』(小杉放庵、竹村書房、1934年)「水神屋の沼見晴らしの座敷に、鰻の焼ける間、胡瓜の生で盃をめぐらす」との記述がある。(
引用元)
選定された理由、そして百景に推薦した人達が当時感じていた牛久沼という観光地のイメージが大体分かります。

そして包含風景の下調べ
①泊﨑
住所に書いてあるのでここは簡単。

茨城百景巡礼 著:室伏勇 (1980年)より

牛久沼に半島状に突き出た岬。牛久沼八景の石碑もあるようだしこれは見晴系の包含風景ですね。恐らく牛久沼の見晴の中では一番の場所だと思いますがかつて牛久に10年住んでいたにもかかわらず一度も来たことが無かったしここ知りませんでしたw

②大師堂
名前からして明らかに泊崎大師堂の事だと思われます。名前の通り①の泊崎と同じ場所にあります。大同年間(806~810)に空海が座護摩を修めたところだという事、そして空海の諡号が弘法大師である事で大師堂。その流れで泊崎大師堂は現在空海関連の様々な信仰物を置いて祭っているようです。
そして戦国時代に多賀谷氏が岡見氏の牛久城を落とす前段としてこの泊崎には城が築かれたらしく現在のお堂が建っている高台は城の物見の曲輪らしい。

③岡見城址

(引用元)

室町時代から戦国時代に活躍した岡見氏の城で、小野川に面した岡見の台地に築城され南北朝時代から戦国時代まで使われ、土塁や空堀の跡が残っている。岡見氏は、南北朝時代にこの地に城を築き、岡見の地名を名乗るようになったと言い伝えられている。その後の岡見城については詳らかではないが、小田原征伐の際に廃城になったものと考えられる。(能書き引用元)

茨城百景めぐり 著:鈴木彰 (1956年) より

それほど目立った高台という訳でもなく過去の航空写真を見ても畑と雑木林という感じで茨城百景めぐりを見ても見晴台という訳でもなく本当にただの史跡としての包含風景っぽい。
一見素人からするとドマイナーな場所に見えますがレビューを見るとマニアの方々が熱の入ったレビューをしているので結構価値がある城跡らしい。

にしても石碑から離れすぎィ!しかもストビューを見てもGoogleマップより詳細な国土地理院の地図をもってしてもアクセスの仕方がイマイチわからない。これは現地に行ってぶっつけ本番ダナ・・・

④小川芋銭の遺蹟
はい皆さんご存じ小川芋銭と言えば牛久沼の河童の絵で有名なあの人でございます。その人の遺蹟といえばあそこしかないですね。

雲魚亭は小川芋銭先生の住居兼アトリエだった場所で現在は記念館になっています。ここは牛久駅を出てすぐに標識があるレベルなので牛久沼関連ではメインもメインの場所と言えるでしょう。
ちなみにここには牛久沼の河童伝説の昔話に登場する悪さをした河童を括り付けてヤキを入れた河童松がある・・・という事になってるんですがこれは後世に植えられたモノで初代のホンモノは1955年に枯れてしまっています。丁度選定当時はギリギリホモノンが現存していたと。高須崎の一本杉と言い百景の松枯れすぎでしょ。

茨城百景めぐり 著:鈴木彰 (1956年) より

そして百景巡りの先人である鈴木センセは雲魚亭だけでなく小川センセの墓所も遺蹟として挙げています。墓所のある得月院は雲魚亭から少し北に行った所にあるようです。(Googleマップに登録されてた)

⑤釣場 ⑥猟場
包含風景の名称だけ見ると何考えてんだ選定した奴らはとなりますが前途のように当時の牛久沼観光の文脈を鑑みるとともかく釣りがウナ丼を食べるくらいにはメインコンテンツだったようです。つまり牛久沼周辺のそこかしこにいい釣場があるぜというのを言いたかったんじゃないですかね(そもそも茨城百景は観光誘致が目的)
そして猟場?と思うかもしれませんが意外と昔は今より身近なレジャーだったっぽいです。というのもほぼ百景選定当時の茨城県映画『水郷』でも良い猟場あるぜ!アピールをしています。(17:03~)

が狩猟というレジャーは70年代頃に狩猟事故が相次ぎ銃の規制強化で衰退したらしいです。

ま、ともかく茨城百景は時代が時代なので現地の住民に情報を聞く事を前提にしてる節があってこういう雑な名称多いんすよねぇ~
しかしありがたい事に選定されたばかりの時代に百景巡りをしていた鈴木先生は釣りを嗜んでいたらしく詳細に釣り場と猟場の情報を書いてくれていました。
釣場としては新地、小茎、房内が挙げられ猟場は池畔全般らしい。

・新地
表記は違いますが三ヶ月橋は三日月橋の事ですね。昔の地図を見ると三日月橋のあたりに新地という地名が書いてあります。

1950年頃の地図

というかここ三日月橋はうしくかっぱ祭り(牛久市の祭り。この辺の地域ではかなり大きい規模)で行われる河童ばやし踊りパレードに使われる「河童ばやし」という曲の歌詞に釣場として登場します。多分牛久沼の釣場としては定番なんですかね。

・小茎
次に小茎の釣場なんですが最初小茎橋の手前を左に曲がり200メートルと書いてあるので当時の地図や航空写真を見てそれらしい物を確認しようとしたんですがどーやら茎崎橋を小茎橋と勘違いして書いたのでは?という疑惑が浮上しました。

小茎橋が架かる稲荷川はどー考えても当時は舟釣りするような大きさでは無さそうで、更に橋から200mの所にも何もありません。
一方茎崎橋のほうは川幅はあるし200mほど先には『天神下の渡シ場』という渡し場がかつてあったようです。普通はそこに舟宿があるというのが自然じゃないでしょうか。なんか分かるかもしれんしとりあえずストビューで現地見てみるか・・・

渡し場の前の家が白石さんじゃないか?

資料に書いてある白石舟宿ってここなのか?地名かと思って調べ物で少し回り道しましたが白石さんがやってる船宿って事か!

・房内
房内は調べると先ほどの茎崎から見て谷田川の上流にある地域の地名です。房内に架かる橋のストビューを適当に見ると川沿いの土手で釣りをしてるおっちゃん達が見えるので完全にここwww
しかし最後の沿岸の農家に宿泊するとよいって書いてますがどういう事?今の感覚だとまるで理解できない。

⑦金龍寺
最後のここはGoogleマップに載っている上検索したらすぐ出て来たので一安心。牛久沼の東岸側、龍ヶ崎市若柴町にあります。
茨城百景めぐりに書かれている金龍寺の能書きは既に岡見城址の所に貼ったので省略しますがそこに書かれていた藁干し観音よりもよっぽど重要な伝説がこのお寺にはあります。
それは牛になった小坊主という昔話です。牛久沼の名前の由来には諸説ありますがその内の一説がこの昔話で、この小坊主は金龍寺の坊主なワケです。更にぶっつりと切れてしまった牛の尻尾から作ったとされる払子は今も寺宝として保管されている・・・との事。ナゼコッチヲカカナカッタ
色々と話題が多い寺ですがGoogleレビューを見るとどーやら新田義貞の墓が一番注目度高いみたいです。

現地編

①泊﨑 ②大師堂

現地の駐車所の目の前にすぐ泊崎大師堂と石碑。石碑は今までにない新しいパターンで石碑自体は他のいくつかの場所と同じ形状ですが文字が何故か赤色バージョン。イカチィ!
ネットで見れる過去の写真だとつい数年前まで色無しだったようです。コロナ後、荒廃していく景ばかり見てきたのでちょっと感動。
そんで上に登って泊崎の先端へ。

ちゃんと維持管理されてる(真顔)
大体今までの見晴台系はジャングル化しているのばかりだったので感無量です。というか行方市にある見晴台系が酷すぎただけなのでは?
ちなみにですがここは南東側に向いているので個人的に昼間より夜明けが一番綺麗だと思います。

で、この大師堂が建っている高台の麓の水際には七浦弁財天が

あった筈なんですが下調べの段階であるらしいと分かっていた朱色のお堂が何故か無い。あとで更に深堀して調べてみるとなんと火事で焼失してしまったらしい。というか現地に来て分かったんですがどーやらコロナ後あたりから他の所も景色が少し違うっぽい。参考までに2000年代に訪れた人の記事を
まず2005年と言う事でネット情報も乏しい頃なので石碑の場所がそもそもわからないというのが時代を感じますw
石碑の文字も色無しで大師堂も朱色、木々が今より生い茂っていてまぁ眺望自体は現在のほうがいいっぽいです。

あと資料『茨城百景めぐり』を見ると鈴木センセ、釣場の新地や小茎まで歩いたんかよヤベーなと思ってしまいますが歩いたらここ泊崎が一番遠いです。というか車で来てもこの半島結構デカいな・・・とか思いました。
そしてGoogleレビューにこんな人がいましたが

ヤベー爺さんだ!佐貫駅から無限に広がる田んぼと当時の泊崎の何もない森の中をテクテク歩いていったのか・・・気が遠くなりそう。しかし当時は車も人も建物も少なくて壮大な景色の中気分よく歩けそうだなぁとも思いました。お堂の所でお握り食べるのも情景を感じていいですね。やっぱりモータリゼーションの前まで、つまり戦後ほんの少しまでは江戸時代みたいな感じの世界が残っていて車の普及で旅行のスタイルも変わったんだなぁ。

おまけとしてここ泊崎には弘法の七不思議というのがあって現地に解説看板があるので興味のある方はゆかりの場所を見て回ってみるのもアリかと思います。ちなみに大半は所在不明なので7カ所回る必要がないので楽です。

③岡見城址
雑な書き込みですが現地はこんな感じでした。

石碑

森の中の道は最早半分獣道で蜘蛛の巣だらけで進むには長靴と棒がいりますねコレ。

本殿と西殿の間の池ですがどうしても見てみたい場合は道が道なので南側の舗装された道からあぜ道に入りアクセスした方がいいと思います。池の底がどうなってるか知りませんが底なし沼状態だった場合落ちたらまず助けは来ない所だと思うので自己責任で。ちなみに西殿は私有地らしいので気をつけましょう(何に?)

④小川芋銭の遺蹟

芋銭ハウスです。
室内の見学は土日祝しか出来ません。ちなみに牛久に10年間住んでいて存在も知っていたにも関わらず今回始めて来ました(チンパンジー)
最初来たらいかにも民家の敷地内にある佇まいだったのでこれ本当に入っていいのか・・・?という感じになりましたがコソコソ侵入してみると普通に看板がありました。

おん・・・おん・・・ん?120周年きねん?調べてみると牛久市のHPに『昭和63年(1988年)開催の、小川芋銭生誕120年記念事業に際し、遺族から牛久市に寄贈され、現在は「小川芋銭記念館」として、一般に公開されています。』
あれ・・・茨城百景選定当時は雲魚亭は一般公開されてなかったんか。しかし包含風景にも入ってるし資料『茨城百景めぐり』ではこの家の事と小川センセの墓が言及されている・・・どいう事だ。が展示を見てみると(写真撮影禁止なので内部の写真無し)ある程度わかってきました。
まず展示に書いてあったエピソードとしてセンセは達筆だったので絵だけでなくセンセの文字の書かれたモノ自体も人気で家の前に置いておいた面会謝絶の文字が書かれた札がファンに盗まれたという事があったそうなので生前から知らん奴らが訪問してたという事。
更に浮島編の雷棒の話を加味すると昔はかなり大らかで一般公開されてなくても現地に来て遺族の人にみせてほしいんやけどーしてた可能性があるのでは・・・?という。知らんけど(マジで知らん)
まぁいいや。少なくとも現代の俺らは土日祝に行けば確実に内部と展示物を見学できるんや。今まで巡ってきた景は景色が失われているとか劣化しているとかそんなんばっかでしたが今回は珍しく現代の方が条件が良い。
そして平日も普通に見れる沼側の庭です。カッパ松(偽)や各種石碑があります。

カッパ松(偽)

ちなみに駐車場は最寄りに牛久市住井すゑ文学館の駐車場があり(住井すゑセンセは小川センセん家の隣に住んでいた女流小説家です)ここに停めて雲魚亭に行くのもOKだそうです。ついでと言っては何ですが牛久市住井すゑ文学館も見学しました。こちらは入場料がかかり100円となっております。

住井すゑセンセは1997年まで存命だったので選定当時や百景巡りの先輩である鈴木センセ、室伏センセがここに来た頃はここの住人としてフツーに住んでたという。ここも昔とは違く、また見れなかった景色ですね。

⑤釣場 ⑥猟場
・新地
ここは牛久に住んでた時に何度か来たことがあります。懐かしいなぁ~。始めて来たのは校外学習か何かでその後も気に入って何度かチャリ漕いできてたな~とか考えていると校外学習のキッズが隊列を組んで歩いてきました。そんな偶然ある?

三日月橋

はい河童発見(ここ来た奴の9割が言ってそう)

ここはいつも右手側の土手に釣人(つりんちゅ)が車を停めて釣りをしています。橋を渡った先にも貸船屋があった筈なのでザ釣場ですね。
しかもなんか生涯学習センターの駐車場付近に古民家カフェ兼直売所みたいのが出来てる・・・(自分が牛久に住んでた頃は無かった)

そして三日月橋の近くには名物あやめ園。

河童発見

ちなみにあやめの季節は5月末~あたりなので6月あたりに行くのがオススメ。自分はチンパンなので10月に来てますが笑 しかしヒガンバナが咲いていてその写真を撮ってる人が結構いたので当たりっちゃ当たりの時期だったのかな?

と新地はこういった具合ですが昔の航空写真を見ると選定当時はこの辺は田んぼしかなかったようなんですが今はかなり整備されていて包含風景の1個みたいになってしまってますw

ちなみにあやめ園の周辺に標識が出てると思いますがここからカッペロードをテクテク歩いてカッパの小径や小川センセハウスに行くことも可能。

軽くカッペロード→カッパの小径→住井すゑ文学館&小川センセハウスまで歩いたんですがこの日、気温29度~30度でセミ鳴いてました。10月ですヨ笑
茨城百景選定当時(1950年)は夏でこのくらいの気温だったのかぁ~とか考えつつ房内以外の2カ所を牛久駅から歩いたり鹿島の砂漠を何キロも徒歩で彷徨った鈴木センセやGoogleレビューの牛久沼を徒歩で1周した爺さんに思いをはせながら歩いてました。
実際、日差しはそこそこ暑いが風は涼しく日陰も涼しいと言った具合でいい感じに汗をかきつつリフレッシュできるんですよね。昔は1年間この暑さを超える事は殆ど無く冬が滅茶苦茶寒いくらい。そりゃハイキングとかワンダーフォーゲルとか抜かして無限にテクテク歩けるわw昔の人間はw 

・小茎
例の天神下の渡シ場へ行ってみた。

現地に行ったら表札の白石は見間違いではなく確かに白石サンでした。なんなら案内板の協力者にも白石さん登場。ここやん。鈴木センセ案内間違えてまっせ(早口指摘オタク)(もう天寿を全うしてそう)

・房内

釣人(つりんちゅ)と釣り用の足場?もあって完全にここ。
川は汚い色に見えますが近くで見ると意外と透明度が高く川底の土の色がそのまま見えてるだけ。水の中の魚とか亀がそのまま見えて暫くまじまじと見てました。

猟場なんですが鈴木センセの言う通り各地の池畔でよくわからん鳥達にチラホラ遭遇したんで記録映画の水郷の狩猟シーンみたいに昔は鉄砲で撃ってたんですかねえ

⑦金龍寺

龍の形をした古木

天気も相まっていい雰囲気でした。参道の入口は旧水戸街道に面しています。多分なんですが昔の参道を無理やり車道にして駐車場につなげているのですれ違いは不能。訪問する際は他の車とカチ合わない事を祈りながら突貫しましょう。

今回の牛久沼編は岡見城以外はかなり見やすいというか人の手によってちゃんと維持管理されていて見やすかったし下調べも楽でした。それどころか選定当時より整備されてそうだし良い感じなんじゃないでしょうか。もし現地に行く人はここらを巡ってうなぎ食ってシャトー神谷と牛久大仏も行っておおけば牛久観光は完璧です。
最後にこれを貼って牛久沼編は完了です。

茨城百景 牛久沼 ~完~

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