茨城百景 桃浦
ゾス(ツーブロゴリラ)
今回は茨城百景の桃浦です。与謝野晶子という大物インフルエンサーもかつて訪れたスポットらしいっすよ?
茨城百景については→『結局茨城百景とは何なのか』
いやぁ~正直資料を見た時、今回は楽勝だな~と思いました。
包含風景2つだけだし楽勝だわちゃっちゃと行ってコンプしたるか~と思ってたら結構な曲者でした。
まず最初に石碑の場所がGoogleマップに載っていないパターンでした。自分が調べた時点では載っておらず場所は百景巡りの先人方の情報を参照しました。
で、場所はここ。霞ヶ浦の東岸で茨城空港の南西あたりです。
石碑にピンは立ってませんが一応ストビューがあり存在を確認できます。
そして一つ目の包含風景、桃浦遊園地が滅茶苦茶にややこしい奴でした。
しかしこの遊園地、かつてここにあった鹿島鉄道鹿島鉄道線の桃浦駅の駅近施設だったようです。なので本来なら歴史に忘れ去られ関連資料を見つけるのさえ苦労するような所だった筈なのですが鉄っちゃん達が関連情報を出しており、おかげ様で全貌を掴むヒントを得ることが出来ました。多分ここに駅が無ければ完全に詰んでたと思います。
そもそも鹿島鉄道鹿島鉄道線とはなんぞやというわけですが、ネット上の早口解説を端的にまとめると1924年~2007年まで存在し常磐線の石岡駅から鎌田までを結んだ鉄道です。
2007年まで存在した路線なのでYoutube等に鉄っちゃん達がアップした動画がありますが桃浦駅自体もその前後の道のりも湖畔を走るエモエモ風景でした。
現代だと海の真ん前に駅があるだけでインスタで見ました来ましたのオーバーツーリズムイナゴがジブリジブリエモエモ鳴き声を発しながら殺到しているわけですが湖畔沿いの線路+エモい木製駅舎+そこから霞ヶ浦と砂浜が見えるという景色だったので昔の風景のままだったらエグい事になってそうです。実はここ桃浦にはあの与謝野晶子も家族で訪れ歌を残していて現代の女インフルエンサーと同じように当時最新鋭のこの観光地に来てエモエモ言ってたそうです。
かしてつや桃浦駅に関しては他にも鉄ちゃん達がシュポシュポ言いながら写真を撮って無限にネットにアップしまくっているので興味のある方は画像検索してみてください(投げやり)
で、鹿島鉄道鹿島鉄道線は最初、石岡~常陸小川間で開業。1926年に浜駅まで開業。丁度その頃に桃浦駅前に桃浦淡水浴場が完成します。
そして大正から戦争を挟んで戦後数十年観光地として発展しますが最終的には他の霞ヶ浦沿岸の湖水浴場と同じく1960年代後半からの水質悪化により閉鎖。湖岸は全て堤防化でかつての景色は消滅。その後前途の通り桃浦駅自体も廃止されてしまったので選定当時からかなり景色は変わってしまっています。
で、この桃浦淡水浴場には付随するプール、貸しボート、出店等の色々な施設があったという事なので最初は淡水浴場の事を桃浦遊園地と呼称していたのかなーと思っていました。
この時までは・・・
でさらなる問題は2つ目の包含風景である箱根の見晴です。下調べを開始し
たら
マジで何も出てきませんwwwwwww
しいて言えば百景巡りの先人達の記事しか出てきません。
それらの情報を総合して箇条書きにすると
・遊園地の近くにある箱根地先から筑波山を望む見晴である事
・絶好の『見晴台』として箱根見晴の名がある
・箱根は行方市浜の字(あざ)単位の地名らしい
で、先人の皆様方は大体、浜(地名)周辺の湖岸からの景色だろと適当に締めてるパターンが殆どなわけですが見晴台なのにそんなわけあるか・・・?と思いつつ自分も答えが分からず面倒くさくなりとりあえず箱根は放置して石碑まで夕日を見に行きました。下調べをしているとここは夕日がきれいだよーという情報がチラホラあって気になったので・・・
石碑のあたりは湖水浴場の砂浜だったワケですが完全に岸壁になってます。そして石碑の横には結構広い駐車スペース。
おぉ~これが桃浦名物の夕日ですかと感心した所で
そこから箱根の見晴は3ヶ月放置します
~終NHK~
しかし3ヶ月後、唐突にやる気を出し再び調べ始めます。
とりあえず一番核心に近いと思われる情報を出していた先人の方の記事を見返します。
ん?箱根氏・・・?見晴・・・まさか・・・
こ、これだぁ~~~。行方市には昔、箱根氏という小領主が居て浜(地名)の高台に館を構えてたらしい。箱根の見晴って絶対この高台やんけ~~~
しかし先人情報によれば遊園地の近くとの事。遊園地からここは約5キロもある・・・が、桃浦の箱根問題を放置して暫くの間に学んだことなのですが茨城百景全般、包含風景間の距離はかなりあるモノばかりです。
百景選定当時(1950年)はモータリゼーション前で公共交通機関か徒歩・チャリンコで移動するのが通常。現代人の感覚からすると5キロ徒歩は結構常軌を逸している距離だと思いますが多分車生活を知らない当時の人からすると5キロは近かったのでは?
まぁ昔の日本人は関東から歩いて伊勢神宮とか行ってますからね。50m先のコンビニまで車で移動する現代日本人とは気合が違います。
追記:後に茨城百景めぐりを購入し読んでみると↑の考察でほぼ正解だった模様
そしてGoogleマップを見てみると丁度この高台で見晴らせそうな場所にはROYAL INというドライブインがあります。ここが目印ですねー。左下の集落が浜でROYAL INの右上あたりが箱根の館だった。
日本では70年代に入るまで里山には人の手が入っていて今より草木がスッキリしていました。なので当時なら見晴らせたはず。(人の手が入ってた理由はWikipediaの里山のページを参照してください)
やっぱりハゲとるやんけ!国道から畑で木もありません。
これは現地調査するしかない!というわけで行きました。
結論から言うと地方の衰退を感じました。
まず目に入ったのがレストランの廃墟です。自販機だけは動いてますがほかは全部廃墟状態です。↑の写真はどうやら展望台跡っぽいが草木ボーボーで前が見えねえよ状態の場所。木々の隙間からわずかに湖畔が見えます!これぜってー展望台だ。
しかしこのドライブインの敷地、最早まともに管理されてないらしくどこ行っても草木ボーボーで中々見晴らせる所が見つからない・・・
あと現地に行って分かったのがGoogleマップにもうっすら写っている小道の正体です。
黄色線で強調した線に細い道があって高台の麓の集落に繋がっています。多分古い道だなと思い後で調べたら
明治頃の地図にも載ってるようなかなり古い道でした。旧道から繋がっているので新道が出来る前、百景選定前もこの道から高台の上にアクセスできた筈。
ともかくこの時は天気も悪く筑波山もガスって見えないので帰りました。
そして帰宅後、ストビューの履歴を見てみると
あぁやっぱり展望台だ。真正面に霞ヶ浦に浮かぶような筑波山がドンと見えたようです。
更に今は廃墟になったレストラン(麺s,はうす玉造店)からも霞ヶ浦と筑波山を見れたっぽい。
2018年あたりにはレストランは閉業し隣のほっともっとも潰れてコロナ後はもうほぼ管理されてない状態になったのか急速に廃墟化している・・・
地方あるあるですが管理者が高齢化して放置だとか東日本大震災やコロナ渦をきっかけにまともに管理されなくなって廃墟化みたいなパターンは今まで何度も見てきました。これもそういうパターンなんかな・・・
ハァ~(クソデカため息)
俺も箱根の見晴堪能しながらラーメン食いたかったんだが?
DRIVE INして缶コーヒー飲みながら見晴してChill(苦笑)(失笑)したかったんだが?(涙)
一応Googleマップのレビューで当時の景色の写真を見れます。
茨城百景 桃浦 ~完~……..ってウソ
箱根の見晴問題解決後から暫く経ち、資料『茨城百景めぐり』と『茨城百景巡礼』を購入して新事実が芋づる式に判明。その後また桃浦を訪問する事に・・・・
(この桃浦編は2024年の2月に桃浦湖岸からの夕日だけ撮影し→5月に箱根の見晴問題を解決→6月に資料の茨城百景めぐり、7月に茨城百景巡礼を購入→9月に桃浦遊園地についての重要情報を発見。その月に現地に行き直しています。)
購入した資料『茨城百景巡礼』にて改良型の1966年版の百景一覧表が存在する事が判明。それの桃浦の項目を見てみると・・・
桃浦遊園地と桃浦淡水浴場は別なの!?
ハァ~(クソデカため息)
しょうがないんでもう一回桃浦遊園地についてちゃんと調べ物をするとある鉄っちゃんの情報を発見しました。
鳥瞰図には淡水浴場後方の高台に遊園地が!
そしてある事を思い出してピンと来た
調べ物をしている内に出てきた現地のお寺、萬福寺のサイトのあるページです。それによると桃浦駅の東側にある天神山にはバンガローやキャンプ場があったという事をそこで知っていたので
つまりこの鳥瞰図に描かれた遊園地のある謎の山は天神山では?と
ちなみにタチの悪い事に桃浦には沖洲の遊園地という紛らわしい名前の公園が淡水浴場が元々所在していた場所のすぐ近くに存在しており百景巡りの先輩方も騙されてここが桃浦遊園地でござるか~となっている人も多数でした。
しかし実際どうなんでしょう。淡水浴場のほうがよっぽど遊園地っぽい設備ですしその跡地付近に遊園地とついた公園とは・・・
しかも浮島の湖水浴場にもかつてバンガローやキャンプ場が付随していたのでどちらかと言うと天神山の施設は淡水浴場の付随施設っぽいんですよね。
ともかくこの説を元に選定当時の地形だった頃の航空写真に位置関係を書き込むと(雑)
こうか?
ちなみに鉄道や駅舎の写真は無限に出てきますが遊園地と水泳場は鉄っちゃん達の興味をあまり引かなかったらしく(当たり前) 駅と鉄道以外の写真は発見できませんでした。オタクくんさぁ・・・
そして茨城百景巡礼より先に購入した資料「茨城百景めぐり」のほうですが
最初はこの文章を読んであーやっぱこの湖水浴場が遊園地なんだ~となっていましたが鳥瞰図と1966年版の一覧表と言う2つの資料を見た後だと水泳場と別物という風にも読み取れるし遊園地の中に水泳場やプールがあるとも読み取れる書き方をしている事に気づきました。鈴木お前ふざけんなよ….ッ!
更に桃浦という駅名の由来についての情報も出てきてこれは地名では無く当時の情景を表しているらしい。
先ほどの鳥瞰図の出どころである鉄っちゃん曰く
・地名ではなく、桃の木を植え遊園地をつくり、淡水浴場を持つ楽園でした。
確かに鳥瞰図では遊園地の所がピンク色になってますね。
そして先ほどの萬福寺のHPによれば
・「桃浦駅」は、当初羽生駅での申請取扱いのようでしたが、桃源郷のような湖岸(浦)を有していることから「桃浦」と命名されたと考えられ~
また調べ物をしている内に出て来たこちらの個人ブログには
・鹿島参宮鉄道時代(戦前)に同社が集客のためこの駅周辺に桃の木を植えて遊園地を造成した。その事から桃浦と命名された。
・・・・あれ?ここまでの情報を見てある事が頭をよぎります。それは日本における『遊園地』という言葉の由来とその歴史です。
まず端的に情報がまとまっているWikipediaの「公園」と「遊園地の歴史」のページを見て欲しいんですが元々遊園地とは幕末~明治頃は庭園の概念から派生した西洋式の公園の事を指していてその後、数ある万博やその他博覧会をきっかけとして模索の時期を経て現代の遊園地の形式に繋がっています。
桃浦駅周辺が鉄道会社によって開発されたのは大正頃でまだまだ遊園地も模索の時期です。現代人の我々から考える遊園地とは少し違う事から混乱が生まれるのかもしれません。
実際同時期に日本全国に作られた遊園地の例を見ると動植物園、噴水、花壇、遊具、見世物、プール、温泉がメインでアトラクションはあるにはあったみたいですがかなり少数みたいです。
ここは桃の木の庭園を備えた公園という感じだったのでは?
桃浦再訪
とその前に桃浦に向かう途中に箱根の高台を通りがかって驚いた。
ROYAL INの隣にあったレストラン跡地が解体されてるwwwwwwww
俺が行ったのは本当にギリギリのタイミングだったのか・・・跡地がどうなるか分かりませんが建物が無いままだったら冬になって緑が減ったらワンチャン見晴らせそうです。
桃浦湖岸(桃浦淡水浴場跡)
石碑の前の湖岸です。毎度の事なのですが何故か自分が桃浦に近づくと天候が悪化します。この写真を撮った後にあっという間に曇り始めました。最初の夕日の写真を撮るのも何度も訪れてようやく撮れたものなんです。なんか因果でもあるんですかね?
桃浦駅跡地
写真を撮っているのは駅の湖岸側、つまり西側です。駅の東側には本来駅前広場の跡地があったのですが今は民家の庭になっているので入れません。昔の写真とは違い西側に建物が経っているので霞ヶ浦が見えるエモエモ駅の面影は殆どありません。まぁその辺の写真は鉄っちゃん達がシュポシュポ言いながら無限にネットに写真をアップしているので調べれば沢山出てきます(2回目)(投げやり)
天神山(桃浦遊園地跡?)
これ桃浦湖岸→桃浦駅跡の順で巡った後テクテク歩いて行って気づいたんですが駅から天神山まで直線なんですね。
右の途切れている道(恐らく新道)は桃浦駅の広場から真っ直ぐ伸ばそうとした形跡がありますがなんらかの理由で未成になっています。一方左側が本来真っすぐ続いていた旧道。Googleマップに書き込んだオレンジの線は天神山の頂上付近にある社に続く遊歩道です。但しこちらは全く管理されておらず自分が行った時点で自然に還っていて何も知らないと道にすら見えません。
この道を辿っていくと
うぉ・・・大丈夫かこれ。水郷麻生編の養神台でも危うく民家の庭先に出そうになってますが今回はGoogleマップで天神の杜という公園がある事を確認してるので多分大丈夫だろうと言う事でそのまま進む。
天神山の斜面を登る道に繋がっていて登ると木々のない場所に出ます。
アレ?これもしかして・・・ここが天神の杜?君写真と違くない?
よく見てみると整備されていた頃のレビューの写真が最新でもコロナ渦の日付で嫌な予感がします。オイこれまたアレじゃん。コロナ渦をきっかけに管理されなくなった奴か?
ここまで草が生い茂っていると遊園地の痕跡もクソもありません。
しかし草地の向こうに霞ヶ浦が見えるこの光景も中々いいかもしれない。
天神山がこんな立派な見晴台だったとは・・・鳥瞰図にあるように桃の木が沢山あった頃は本当に絶景だったんだろうなぁ。
追記10/15
彗星を見るために再々訪。日が暮れるまでにもう一度見ておこうと思い天神山の方向に向かうと山の横にある畑で作業するお爺さんに遭遇。挨拶をして色々と話を聞いてみた。
・桃浦遊園地という名称にはピンと来ない模様。湖岸には水泳場とプールがあったけどそれの事か?といった具合。
・確かに天神山にはキャンプ場やバンガローがあった。それ以外だとこの天神山では鉄砲撃ち(話の内容から恐らくクレー射撃?)が行われていた事も。ちなみにこの天神山にあった施設の名称は知らないらしい。
・天神山にあった施設は淡水浴場とほぼ同時期に廃れていき消滅。60年代後半くらいまではあった。
・その後、管理している人達がいたが(Web情報によれば天神山を守る会という所が管理していた模様)コロナ渦あたりから放置状態になっている。
ちなみにお爺さんは70代で物心ついた頃から天神山は上記の状態だったそう。
最後まで桃浦遊園地についてはよくわからず不動浦以来の不明箇所になってしまった。
しかしよくよく考えてみると「桃浦遊園地」の情報自体が茨城百景の一覧表と茨城百景めぐり、例の鉄っちゃんがアップしていた鳥瞰図、↑の個人ブログくらいにしか登場しないんですよね。基本桃浦について調べていて出てくるのは湖水浴場の事だけです。現地のお爺さんも「桃浦遊園地」という名称自体知らないみたいだしマジでこれが不思議だったんですよ。
しかし先ほどの萬福寺のHPよーく見ると
・湖水浴場の各種施設は鉄道会社が整備したモノではなく桃浦観光協会が整備した
・天神山のキャンプ場やバンガローも桃浦観光協会が整備した
という注目すべき点があります。
その上でこれまでにわかった情報から考察(妄想)をして辻褄の合う流れを考えてみます・・・
戦前、鉄道会社が桃浦駅周辺を集客のために開発。天神山に桃の木の庭園を備えた遊園地を造成。
↓
しかし桃浦駅は結局、湖水浴目的の旅客が多かったため桃浦観光協会を発足させ淡水浴場側の設備を拡充。
↓
なんらかの理由で遊園地を桃浦観光協会が湖水浴客用のキャンプ場やバンガローを備えた施設に改修(時期不明)
↓
天神山の遊園地が湖水浴場に付随するレジャー施設になった事で遊園地の存在が忘れ去られた。
こうかな・・・?知らんけど(関西人)
この茨城百景、成り立ちからして(詳細はこの記事)戦前の観光地を選定している向きが強いのですが桃浦遊園地もまたそういう景だったのでは?
そして遊園地は茨城百景めぐりに記述があるので戦後5年そこそこくらいの鈴木センセの時代にはまだギリギリ存在していて、かつ現地のおじいさんの記憶が正しければおおよそ50年代後半から60年代前半のどこかでキャンプ場やバンガローを作ったという事になるんでしょうか。
しかし~鈴木センセの書いている事ははたして本当なんでしょうか。今まで調べて来た茨城百景の行楽地が戦時に直面した運命を考えると戦時中に営業終了したのでは?と邪推してしまいます。というのも茨城百景めぐりの描写を見ると遊園地の内容は特に記されておらず桃浦駅の近くに遊園地があるという情報を前から知っていただけで戦中に荒廃した遊園地を鈴木センセは発見できなかったんではないかと。戦時体制に入り営業終了→荒廃→湖水浴客用のキャンプ場やバンガローがある施設としてリニューアルというのが流れが自然じゃないかなと・・・まぁ妄想ですし戦中に営業終了していたとしても普通に営業再開した可能性もありますからね。
また1966年版の一覧表は1966年時点で消滅している景を削除せず新しい包含風景を追加しているのが特徴なのですが(例えば鹿島砂丘と神之池は包含風景の軽野サンドスキーが1941年に営業終了して再開もしなかったが削除されず一方で新たに出来た工業地帯を包含風景に追加している) 1966年版の一覧表において包含風景に桃浦遊園地と桃浦淡水浴場両方がある理由もこれで説明がつきます。桃浦遊園地は無くなったが削除せず桃浦観光のメインになった桃浦淡水浴場を追加したのかな?・・・と。
ちなみに行方市には調べた限り郷土資料館的な施設が無く、学芸員もいないようなのでこの景自体の質問も関連文献があるかも聞くことができません。自分が出来るのはここまでですね・・・あとは後世の巡礼者に任せました(投げやり)
関東鉄道が社史などの資料に関連する記録を残していればわかるかもしれないですが。
茨城百景 桃浦 本当の本当に~完~
オマケ
ちなみになんですが資料「茨城百景めぐり」にて歩崎の眺望のページを見ると
霞ヶ浦八景の1つとして数えられていて秋の月がなにか名物らしいですよ?