茨城百景 霞ヶ浦と土浦港
茨城百景については→『結局茨城百景とは何なのか』
今回は包含風景が無いですが景の名称が『霞ヶ浦と土浦港』なのでどこを見る所かハッキリしてて助かる~
また↑の結局茨城百景とは何なのかで述べた通り茨城百景は大正~戦後の世界を前提にしているモノなのでいつもの事ですがそこも気をつけながら下調べをしていきます。
石碑
まず石碑なんですがこの景は無いタイプのようです。 ~終~ NHK
①霞ヶ浦
これはまぁ特に調べる事も無いですね。みんな知ってるでしょ霞ヶ浦。だって日本で2番目のデカさの湖だぞ?
・・・・
じゃあせっかくなんで霞ヶ浦の豆知識言いまーす(唐突)
大勢の人が想像する霞ヶ浦と言えばY字型のアノ湖だと思うんですけど実はソレ西浦と言います。
実は霞ヶ浦というのは西浦や北浦、外浪逆浦等の色々な周辺の各水域全てひっくるめたモノを指すんですヨ(早口指摘オタク)
でも現実で「あ、それ霞ヶ浦じゃなくて''西浦''ね(ニチャァ)(メガネクイッ)」とか言ったら確実に嫌われると思うので↑はやっぱ記憶から消してください。
まぁかつてこれらは元々香取海という巨大な内海だったので恐らくそういう歴史的経緯でこう言う事になったんじゃないかな~と思います。
面積を盛るためにセコい手を使ってるわけではないです。多分。
②土浦港
まず土浦という街について理解が要ります。
物凄い端的に言えば内海の時代から霞ヶ浦は伝統的に水運が発達していて、ここ土浦は水戸街道や常磐線という陸運と港のターミナル的な場所であり交通の要所として発展した街、というわけです。
それを抑えた上でとりあえずコレ見てください。(他の水郷系の景でも引用している動画)
茨城百景の選定は1950年で↑の映画は1958年のモノですがこの時代はまだ本格的なモータリゼーション前です。今と違い観光は公共交通機関と徒歩でのアクセスが基本。よってまさに土浦港は水郷観光の玄関口という立ち位置だったわけですね。景の名称に百景で唯一『霞ヶ浦』が入っているのもこういう所からでしょう。
そして土浦という街を語る上で欠かせないのが水害の歴史です。
現在は今までの治水工事の積み重ねがあるので実感がわきにくいですが土浦はかつて水害に悩まされていた街でした。
明治維新後、日本鉄道海岸線(現在の常磐線)を建設する際に色川三郎兵衛という地元の政治家が敷設計画を変更させ霞ヶ浦側に線路を作りその盛土を堤防代わりにし、霞ヶ浦に繋がる川には閘門を作りました。
中心市街地を東西に流れる川口川と常磐線が交差する部分にはかつて川口川閘門という物があって現在この川は埋め立てられてしまいましたが門の跡地は存在しているので百景巡礼の際は必ず押さえておこう👉
門の奥は市街地の中心部まで川(川口川)が続いており、水路付近はこんな感じだった。
な、なんて優美なんだ。現在の量産型地方都市みたいな駅前とは格が違います。水運が衰退して県南最強の地位はつくばに奪われたわけですがもしこの景観が残ってれば観光地として結構強かったんじゃないだろうか・・・
ちなみに↑の写真を見ると気づく人は気づくかもしれませんが元々の土浦港の範囲は川口川の河口~中心街のあたりだったようです。前途の通り川口川は埋め立てられてしまったので現在の土浦港は線路より東側に移転しています。
そして明治維新後は鉄道が通っただけでなく汽船(蒸気船)も登場。ここから水郷汽船の歴史が始まります。
戦前は主に人々の足として(但し明治維新以前から引き続き東国三社巡りなどで観光需要もあり)、戦後は観光地行き(特に湖水浴場行き)の航路を増強して主に観光船として・・・という感じだったようです。
そしてモータリゼーションや60年代後半からの水質汚濁の影響で水郷汽船は1970年代に姿を消してしまうのですがその後も土浦港ではさつき丸などの汽船を運航していたラクスマリーナ社(旧水郷汽船→旧京成マリーナ)と蒸気船の船長が独立して創業したという歴史がある常陽観光社の2社が各地には停泊しない観光遊覧船を運航しているようです。
そんなこんなで土浦港は明治維新前~大正までは物流の重要拠点として、戦時中は軍都として、戦後は観光港としてその役割を変えてきました。なので土浦港は時代によって姿形の変化が激しくその役割が変わる事に土木工事が行われていたようです。
まず前途の通り明治維新以前からの元々の土浦港の範囲は川口川の河口~中心街のあたり。
その後
明治に鉄道や閘門が作られるが港自体は変化せず
↓
1932年に土浦港の大規模整備が行われ、合わせて土浦駅の東側(霞ヶ浦側)と市街地を結ぶ木造の太鼓橋(名称:港橋)が新設される(1935年完成) 位置的には川口川閘門より更に霞ヶ浦側に設置された形
↓
1968年に鉄筋コンクリート製の新港橋に架け替え
↓
土浦港が更に霞ヶ浦側に移動し現在の場所に。常磐線の線路から西側(すなわち閘門の西側)の川口川が埋め立てられる。
↓
つくば万博に前後して港橋から西側が埋め立てられ駅前駐車場に
ざっくり書くとこんな感じの変遷みたいです。
土浦港が現在の場所に移動したのは戦後観光を主な役割とするため線路から東側の土地に観光施設もセットで作ったためだと思われます。
60年代以降の航空写真を見ると確かに土浦港のあたりは楽しそうな施設がすし詰めになっています。
現地編
ッス(おはようございますの略)
土浦港は駅前にあり市街地の真ん前なので人気の少ない早朝から巡礼を開始。
早速土浦港へ。現地には常陽観光のジェットホイルつくば号だけがポツンと係留されていました。
なんか船がボロいな・・・まさか廃業したの!?と思って後で調べたらどーやら2023年の3月から今年の2月まで休業中らしいです。
そして気になったのは船体に書かれたこれ
ベンツ?上の超高速船も相まってウサンクサ….
しかしこれも後で調べたらどうやらこのジェットホイルつくば号はマジの本当のガチでメルセデスベンツ製の船だそうです。ウェェイ…イカチィイ!!!⤴
そういわれてみると内部のシートが超高級シートに見えてきました(適当)
1990年の物らしいのでまさにバブルの産物って感じですね。
東側に移動すると色川三郎兵衛センセの銅像があります。
この像の奥の敷地にはマンションを建てる予定だったらしいですがリーマンショックでとん挫して基礎工事跡だけ残った謎の広場みたいになっています。
恐らく例のレイクロッジは昔の写真を見るとこの跡地の南端あたりにあったんじゃないかな~と思います。
昔の航空写真を見るとその後新しい建屋に建て替えたようで実際2007年くらいまではここにはラクスマリーナの遊覧船待合所とそれに隣接するヨットハーバーがあったようです。
そしてこのマンション基礎工事跡の北側には巨大な空き地と現在のラクスマリーナの敷地。
過去の写真だとジェットホイルつくば号が係留されているあの岸壁にさつき丸が停泊していますが現在のラクスマリーナの遊覧船はこちらに係留されており、入口の看板からしてもこちらに乗り場が移動したのかな?
またこのラクスマリーナの敷地の北側にはりんりんポート土浦サイクリング休憩所という施設がありますがここは2007年まで存在した土浦京成ホテルの跡地の一部を利用した施設らしい。
実は先ほどのとん挫したマンションは閉館したこのホテルの跡地利用計画に基づいて作られる予定でしたが前途の通り超タイミング悪くリーマンショックが来てとん挫(笑) なにわろとんねんしばくぞ
ちな基礎の撤去は結構コストがかかるようでどうしようも無いそうです。結構エグいっすね。誰かここにマンション建てる人募!w
ともかくこの施設が出来た事でようやく跡地を再利用出来た形ですがホテルの敷地の一部しか使っておらず余った所は前途の通り巨大な空き地になっているってワケ。
あ、そうだ(唐突) あとこの休憩所の屋上には展望台があります。
いいじゃん(いいじゃん) でもやっぱりホテルやレイクロッジがある時代に来てみたかった。
土浦港から駅側に歩くと例の港橋です。
埋め立てられているので橋では無くもう普通に道路ですが笑
反対側はこんな感じ。ここも川口川だった。
駅前立体駐車場と土浦ニューウェイの高架。この立駐のあたりも水辺だった。
ここから道沿いに東進すると川口川閘門の跡地です。
川の跡には結局道路が通っているので姿かたちは変わっても交通に使われている事には変わりないようです。景観は完全に悪化していますが笑